教会から学ぶ Part2 キリストを主とする
今回訪問した教会には、尊敬できる牧師や指導者がおられました。その方々のお話を伺う中で、信仰に固く立つ姿を目の当たりにしました。彼らに共通していたのは、「救い主はキリストであり、教会のかしらもキリストである」という確信でした。
つまり、信仰者はイエス・キリストご自身を主として歩まなければならない、ということです。
この大原則があるからこそ、牧師たちは自分自身のためではなく、主から委ねられた働きのために忠実に仕えているのだと感じました。
繰り返し聞いたこと
実際に、訪問した教会で繰り返し耳にしたことがあります。
ミニストリーが誰かの所有物になってはいけない。
神から委ねられた権威を、自分のために用いてはいけない。
ミニストリーは、維持すること自体を目的として存続するものでもない。
なぜなら、私たちが従うべきお方はキリストであり、ミニストリーの中心も、教会のかしらであるキリストだからです。
これは基本的な真理です。しかし、この基本的な真理は、私たちの救い、信仰生活、そしてミニストリーのあり方を根本から見直させます。
一人の兄弟の証
ある日曜日、私は四国のある教会にいました。
そこで、一人の兄弟からこのような証しを聞きました。
私は日本聖書学院で学んだわけではありません。しかし、日本の僻地に福音を伝えるために来た宣教師から、救い主イエス・キリストに従うことを教えられ、その福音を聞いて信仰を持ちました。
この証しは、私自身の考え方を改めるためにも必要なものでした。なぜなら、私たちはいつの間にか、主のためのミニストリーを、まるで自分の手柄や所有物であるかのように語ってしまうことがあるからです。
「私の語る福音」
「私が属しているミニストリー」
「私の愛する宣教チーム」
このような言い方や考え方をしてはいないでしょうか。そして、それ以上に、このような考え方を持ってはいないでしょうか。
ミニストリーにおいて、キリストではなく自分自身を主人にしてしまうことがないように、自分の歩みを振り返る必要があります。
「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えています。」(Ⅱコリント4章5節)
心からの願い
人の名でも、ミニストリーの名でもなく、キリストの御名だけが高く掲げられるように。そのことを心から願いながら、救われたときに「主」と告白したお方を、日々変わらず「主」として見上げ、従い続けたいと思います。



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