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教会から学ぶ Part1. 賜物によってでは罪を覆い隠せない

9月9日
読了時間: 2分


この数か月、さまざまな教会の先生方とお話しする中で、何度も心に迫られたテーマがあります。


それは、「外面的な奉仕と内面の現実との乖離」でした。人は目に見えるものに目が向きやすくなります。しかし、どんなに優れた働きを追い求めても、心の動機こそ重視しなければなりません。なぜなら、神は私たちの心をご覧になるからです。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル16:7)

神との交わりをおろそかにし、自分自身を吟味することをやめてしまえば、奉仕だけが先行し、霊的な歩みとの間に少しずつ隔たりが生まれてしまいます。私たちは、この危険性を常日頃覚えたいと思います。


その隔たりはすぐには見えなくても、やがて現れてくるものです。パウロは、テモテにこう勧めました。

「自分自身にも気をつけなさい。また、教えることにも気をつけなさい。」(第一テモテ4:16)

興味深いことに、パウロは「教えに気をつけなさい」と言う前に、「自分自身にも気をつけなさい」と命じています。健全な教えを語るためには、まず健全な霊的生活の吟味が求められています。


ある牧会者は、自分の生活と教えに乖離が生じないよう、キリストにある兄弟姉妹に自らの霊的な状態を率直に話すよう努めていると言っていました。日曜日の礼拝後の報告時に、また周りの同労者たちに。この牧師はあらゆる機会を用いているそうです。


そのような歩みは自己吟味を助け、「教える能力があっても罪を覆い隠すことはできない」という事実を常に思い起こさせてくれます。


非常に残念なことに、働き人がミニストリーを退くという知らせを耳にすることがあります。そのような時こそ、「賜物が罪を覆い隠すことはできない」という原則を思い起こす必要があります。


しかし、重要性をどこに置くべきなのか、この点において注意が必要です。ショッキングなニュースを聞く時に、この原則を知る「私」「あなた」が深く吟味しなければなりません。


「私は、いつでも罪を犯す可能性がある。」

「私は、神の恵みにいつもより頼んでいるだろうか。」

「私は、自分自身に気をつけているのか。」


今回の「教会から学ぶ Part 1」では、何よりも罪の力と、その恐ろしさを改めて覚えたいと思います。そのことを通してこそ、これから続くシリーズで、救われた者としてどのようにミニストリーに仕えるべきかを考えていきたいのです。そのことを通して、これから続くシリーズにおいて救われた者としてのミニストリーに焦点を置くことが出来るからです。






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