愛する者の姿2

愛する者の姿2

たとえどんなすばらしい霊的な賜物であっても、愛がなくては何の益にもならないことをパウロはコリント第一の手紙13章で教えています。聖書が教える愛とは単なる感情や概念ではありません。具体的な形で私たちの生活に見て取ることができるものです。パウロはその姿を私たちに提示してくれるのです。クリスチャンが持つべき愛とはどのようなものでしょう。パウロの言葉に耳を傾けていきましょう。 愛は寛容である...
愛する者の姿

愛する者の姿

愛のある風景 聖書的な愛を実践することは、私たちにとって容易なことではありません。それは、私たちがこれまで経験してきた愛と、聖書が求めている愛との間にあまりにも大きな違いがあるからです。 日常の生活の中で私たちが見聞きしている愛は、私たちのうちから出てきたもので、利己的で、自己完結的な愛です。しかし聖書が実践しなさいと命じている愛は、私たちから出たものではなく、神から発したもので、聖霊の実として私たちの生涯に実るものなのです(ガラテヤ 5:22)。 聖書がはっきりと私たちに教えることは、救いのないところに神が喜ぶ...
自己愛という非聖書的教え

自己愛という非聖書的教え

近年、多くのキリスト教会で語られるメッセージの中で「自分を愛することが必要である」ということが語られています。しかし、聖書には「自分を愛しなさい」という命令は出てきません。ではどうして神がこのような命令をしているかのように教えられているのでしょう?聖書は自己愛に関して何を教えているのでしょう?...
クリスチャンと礼拝(6)—礼拝と神の栄光—

クリスチャンと礼拝(6)—礼拝と神の栄光—

「礼拝とは、内なる人が、態度、行動、思想、言葉を通して、啓示された神の真理により、賛美をもって、神のすべてに応答することである。」 『礼拝生活の喜び』という本の中でマッカーサー師は礼拝をこのように定義しました[1]。これは礼拝が日曜日の数時間だけに限定されたものではなく、救われている者の全生涯を通してなされなければならないものであることを私たちに知らしめます。私たちが自分勝手な思い込みに基づいて礼拝するのではなく、神が聖書を通して示してくださった真理に則して、全ての瞬間を神の求めに応じて生きることこそが礼拝なのです。...
クリスチャンと礼拝(5)—礼拝と教会—

クリスチャンと礼拝(5)—礼拝と教会—

ヨハネの福音書4章にでてくるイエスとサマリヤの女との対話の中で、イエスはこの女が持っていた礼拝観に異議を唱えました。そこで語られたイエスの言葉は、私たちの持っている礼拝観を吟味させるものです。私たちの多くは、礼拝というものが定められたときに、定められた場所で、ある特定の方法を持って行われるべきであるという考えを持っています。しかしイエスが答えの中に、私たちは「礼拝とは、特定の場所、時、形式に制限されるものではない」という真理を見出すことができます。ここで私たちは特に、礼拝の場所という点に焦点を当てて考えていきたいと思います。...