what we believe and teach

doctrinal statement

日本聖書学院の教理

どのような教理を持っているのかということはすべてのクリスチャンにとって非常に重要なことです。なぜなら人は、信じていることに基づいて生き方を決めていくからです。そして私たちは可能な限り、聖書の注意深い学びとそれによって導き出される真理の理解に基づいて、正しい教理を持たなければなりません。日本聖書学院は、福音主義的聖書理解の下で、聖書が神の言葉であるが故にもたらされる無誤性、十全性とそれに伴う絶対的な権威を認め、以下の教理が真実であることを確信し、教えています。

当学院は、聖書が人に対して書き記された神の啓示であることを教える。神の啓示であるがゆえに、聖霊によって与えられた聖書66巻は、全てにおいて霊感を受けた(十全霊感)神のことばであることを教える(Ⅰコリント2:7-14; Ⅱペテロ1:20-21)。

当学院は、神のことばが客観的、命題的啓示であり(Ⅰコリント2:13; Ⅰテサロニケ2:13)、全ての単語は逐語的に霊感を受け(Ⅱテモテ3:16)、その原著において、神の息吹によって書かれた、全く誤りのない、無謬のものであることを教える

当学院は、字義的、文法的—歴史的解釈法を教える。これは創世記のはじめの数章が教える6日間での創造の働きを文字通り認める解釈である(創世記1:31; 出エジプト31:17)。

当学院は、聖書だけが信仰とその実践に関する絶対的な基準を制定すると教える(マタイ5:18; ヨハネ10:35, 16:12-13; 17:17; Ⅰコリント2:13; Ⅱテモテ3:15-17; ヘブル4:12; Ⅱペテロ1:20-21)。

当学院は、神が聖書を通して語られたこと、それが二重の原著者という方法によるものであることを教える。これは聖霊が人間の著者たちを特別に指揮し、個人的特徴や著述スタイルの違いを用いて、聖書全体においても、またその一部においても一点の誤りもない(マタイ5:18; Ⅱテモテ3:16)神のことばを人が書き記したということである(Ⅱペテロ1:20, 21)。

当学院は、聖書のどの箇所にも複数の適用を見出すことができるが、正しい解釈は一つしかないことを教える。聖書の意味は、解釈者が聖霊の助け(啓蒙)の下に、字義的、文法的−歴史的解釈方法を熱心に適用する事によって見出される(ヨハネ7:17; 16:12-15; Ⅰコリント2:7-15; Ⅰヨハネ2:20)。真理の正しい適用は、全ての世代に対して拘束力があることを認識するがゆえに、全ての信徒は聖書の真の意図と意味を注意深く確かめる責任を担っている。しかし、人が聖書の真実性を裁くことは決してない。常に聖書の真理が人を裁くのである。

当学院は、生ける、唯一まことの神しか存在しないことを教える(申命記6:4; イザヤ45:5-7; Ⅰコリント8:4)。この神は無限であり、全知の霊であり(ヨハネ4:24)、全ての属性において完全である。神は本質において一人であり、永遠に父、子、聖霊という(マタイ28:19; Ⅱコリント13:13)それぞれが礼拝と服従を受けるにふさわしい三人格で存在される。

父なる神

当学院は、三位一体の第一位格であられる父なる神が、ご自身の目的と恵みに基づいてすべてを命じ、取り決めていることを教える(詩篇145:8; Ⅰコリント8:6)。この方はすべてのものの創造主である(創世記1:1−31; エペソ3:9)。唯一完全で全能な全世界の支配者である父なる神は、創造、摂理、そして贖いにおいて主権者である(詩篇103:19; ローマ11:36)。この方の父性は三位一体の神における称号として、また人類との関わりにおいて現されている。創造主として全人類の父であるが(エペソ4:6)、この方は信徒だけの霊的な父である(ローマ8:14; Ⅱコリント6:18)。この方はすべての事柄がご自身の栄光の為に起こるように定められ(エペソ1:11)、すべての被造物およびあらゆる出来事を継続的に支え、導き、そして支配している(Ⅰ歴代史29:11)。この方は主権者であるが、罪の作者また賛同者ではなく(ハバクク1:13)、道徳と知性を有する被造物の責任を必ず問われる(Ⅰペテロ1:17)。この方は永遠の過去にご自身の民とする人々を恵みの内に選ばれ(エペソ1:4−6)、この方の下に来るすべての者を罪から救い、そして養子とすることによって彼らの父となられる(ヨハネ1:12; ローマ8:15; ガラテヤ4:5; ヘブル12:5-9)。

子なる神

当学院は、三位一体の第二位格であられるイエス・キリストが、あらゆる神としての卓越した性質を所持していること、またこの方が父なる神と同格、同質、そして永遠に共存される方であることを教える(ヨハネ10:30; 14:9)。

当学院は、父なる神がご自身のみこころに基づき、御子イエス・キリストを通して「天と地とその中のすべてのもの」を創造したことを教える(ヨハネ1:3; コロサイ1:15-17; ヘブル1:2)。

当学院は、受肉(神が人となること)において、キリストが放棄したのは神としての権能であって、身分においても性質においても神としての本質を放棄したのではないことを教える。永遠に存在される三位一体の第二位格である方は、人間に付随するあらゆる基本的性質を受肉において受け入れ、「神である人」となられたのである(ピリピ2:5-8; コロサイ2:9)。

当学院は、イエス・キリストが区分することのできない統一性をもって、人間性と神性を表していることを教える(ミカ5:2; ヨハネ5:23; 14:9-10; コロサイ2:9)。

当学院は、主イエス・キリストが処女から生まれたこと(イザヤ7:14; マタイ1:23, 25; ルカ1:26-35)、受肉された神であること(ヨハネ1:1, 14)、この受肉は神を示し、人を贖い、神の御国を統治する為であることを教える(詩篇2:7-9; イザヤ9:6; ヨハネ1:29; ピリピ2:9-11; ヘブル7:25-26; Ⅰペテロ1:18-19)。

当学院は、受肉において三位一体の第二位格である方が、 神としての属性を捨てることのないまま、神であるがゆえに持つあらゆる特権を行使する権利を横に置き、子としての立場を取り、仕える者にふさわしい姿を取られたことを教える(ピリピ2:5-8)。

当学院は、私たちの主イエス・キリストが、ご自身の血を流し、十字架上で犠牲的死を遂げることを通して私たちの贖いを達成してくださったことを教える。この死は、自発的なものであり、罪を償う身代わりの死であり、神の怒りをなだめ、人の罪を贖う死である(ヨハネ5:15; ローマ3:24-25; 5:8; Ⅰペテロ2:24)。

当学院は、主イエス・キリストの死の有効性に基づき、主を信じる罪人が罪の報い、それに伴う罰、罪の力、そしていつの日か罪の存在自体から解放されること、そしてその罪人が義と宣告され、永遠のいのちを与えられ、神の家族として加えられることを教える(ローマ3:25; 5:8; 9:2; Ⅱコリント5:14-15; Ⅰペテロ2:24; 3:18)。

当学院は、私たちの義認が、聖書に記されているとおりに、肉体的におこったキリストの死からの復活によって確証され、今このキリストが天に昇られ、父なる神の右の座におられ、そこで私たちの弁護者また大祭司として執り成しの働きをしていることを教える(マタイ28:6; ルカ24:38-39; 使徒2:30-31; ローマ4:25; 8:34; ヘブル7:25; 9:24; Ⅰヨハネ2:1)。

当学院は、キリストが墓からよみがえられたことによって、神が御子の神性を立証され、十字架におけるキリストの贖いの業を神が受け入れたことの証明を与えたことを教える。イエスの肉体的な復活は、すべての信徒が未来において復活のいのちを得ることの保証でもある(ヨハネ5:26-29; 14:19; ローマ4:25; 6:5-10; Ⅰコリント15:20, 23)。

当学院は、イエス・キリストが、空中携挙時にご自身のからだである教会を迎え入れ、教会と共に栄光のうちに再臨し、地上に千年王国を設立されることを教える(使徒1:9-11; Ⅰテサロニケ4:13-18; 黙示録20)。

当学院は、主イエス・キリストを通して神がすべての人— 1) 信徒(Ⅰコリント3:10-15; Ⅱコリント5:10)、2) 栄光の再臨時に地上に存在する人々(マタイ25:31−46)、3) 白い御座の裁きの時にすべての未信の死者たち(黙示録20:11−15)—を裁くことを教える(ヨハネ5:22-23)。キリストは神と人との仲介者(Ⅰテモテ2:5)、キリストのからだである教会のかしら(エペソ1:22; 5:23; コロサイ1:18)、またダビデの御座から君臨されるやがて来る全世界の王として(イザヤ9:6-7; エゼキエル37:24-28; ルカ1:31-33)、主として、また救い主としてキリストに信頼を置かないすべての者を裁く最終的な裁き主である(マタイ25:14-46; 使徒17:30-31)。

聖霊なる神

当学院は、聖霊が神であり、永遠で、他から派生した方ではなく、知性(Ⅰコリント2:10-13)、感情(エペソ4:39)、意思(Ⅰコリント12:11)、永遠性(ヘブル9:14)、遍在性(詩篇139:7-10)、全知性(イザヤ40:13−14)、全能性(ローマ15:13)、そして真実性(ヨハネ16:13)といったすべての神性と人格に関する属性を所持していることを教える。すべての神としての属性において聖霊は父と子と同等であり、同じ本質をなす(マタイ28:19; 使徒5:3-4; 28:25-26; Ⅰコリント12:4-6; Ⅱコリント13:14; エレミヤ31:31-34とヘブル10:15-17)。

当学院は、全人類に関する神のみこころを遂行するのは聖霊の働きであることを教える。創造(創世記1:2)、受肉(マタイ1:18)、書かれた啓示(Ⅱペテロ1:20-21)、また救いの働き(ヨハネ3:5−7)において聖霊は主権的な働きをされた。

当学院は、キリストのからだを設立し、それを完成させるというこの時代独特の聖霊の働きが、キリストによって約束されていたように(ヨハネ14:16-17; 15:26)、父のもとから聖霊がやって来たペンテコステの日に始まったことを教える。聖霊の働きには世の罪と、義と、裁きを明らかにする事が含まれ、また主イエス・キリストに栄光を帰し、信徒たちをキリストの似姿に変えるという働きがある(ヨハネ16:7−9; 使徒1:5; 2:4; ローマ8:29; Ⅱコリント3:18; エペソ2:22)。

当学院は、聖霊が神性における超自然的、主権的主体者であり、すべての信徒をキリストのからだに加えるバプテスマの働きをなすことを教える(Ⅰコリント12:13)。また聖霊は信徒の内に内住し、信徒を清め、指導し、奉仕ができるように力を与え、贖いの日まで守る働きをなす(ローマ8:9-11; Ⅱコリント3:6; エペソ1:13)。

当学院は、聖霊が使徒と預言者たちが神の啓示である聖書を書き記すに当たって、彼らを全ての真理に導いた教師であることを教える(Ⅱペテロ1:19-21)。全ての信徒は救いの瞬間から聖霊によって内住され、こうして聖霊によって新生した者は皆、聖霊に満たされる(支配される)という責任を負っている(ローマ8:9-11; エペソ5:18; Ⅰヨハネ2:20, 27)。

当学院は、聖霊が教会に霊的賜物を施すことを教える。聖霊はその力を誇示することによってご自身やその賜物を讃えることをせず、失われた者を贖う働きと聖なる信仰の内に信徒を成長させることによってキリストの栄光を讃える(ヨハネ16:13, 14; 使徒1:8; Ⅰコリント12:4-11; Ⅱコリント3:18)。

当学院は、聖霊なる神は今日、その主権に基づいて聖徒の完成の為に全ての賜物を与えることを教える。また教会の創成期に起こった異言で語ることやしるしとしての奇蹟の働きは、使徒たちが神の真理を啓示する者であることを示し、それを証明する為に起こったことであって、決して信徒の生涯に継続的に見られる特徴として与えられるものではないことを教える(Ⅰコリント12:4-11; 13:8-10; Ⅱコリント12:12; エペソ4:7-12; ヘブル2:1-4)。

当学院は、人が神によって直に、神の似姿に造られたことを教える。人は理性と、知性と、意志と、自決と、神に対する道徳的責任を持った罪のない存在として創造された(創世記2:7, 15-25; ヤコブ3:9)。

当学院は、人の創造における神の意図は人が神の栄光を讃え、神との交わりを楽しみ、神のみこころに沿って生きることであり、これによって人に対する神の目的をこの世で遂行することにあったことを教える(イザヤ43:7; コロサイ1:16; 黙示録4:11)。

当学院は、啓示されていた神のみこころと神のことばに対するアダムの不従順の罪によって、人は潔白を失い、霊的及び肉体的死という罰を受ける者、また神の怒りの対象となり、本質的に堕落した、神の恵みによらなければ神に喜ばれることを選ぶことも行うこともできない者になったことを教える。自らを罪のない状態に回復する力を持たないゆえに、人は絶望的な存在である。それゆえに人の救いは完全に私たちの主イエス・キリストの贖いの業を通して為される神の恵みによるものである(創世記2:16, 17; ヨハネ3:36; ローマ3:23; 6:23; Ⅰコリント2:14; エペソ2:1-3; Ⅰテモテ2:13, 14; Ⅰヨハネ1:8)。

当学院は、すべての人がアダムの内に存在していたがゆえに、アダムの罪によって堕落した性質は、イエス・キリストを除く全時代の全人類に受け継がれたことを教える。それゆえ、全ての人は本質的にも、個人の選択においても、また神の宣告においても罪人である(詩篇14:1-3; エレミヤ17:9; ローマ3:9-18, 23; 5:10-12)。

当学院は、救いが人の功績や行いによって与えられるのではなく、イエス・キリストの流された血が為した贖いに基づく神の恵みによって与えられるものであることを教える(ヨハネ1:12; エペソ1:4-7; 2:8-10; Ⅰペテロ1:18, 19)。

選び

当学院は、選びが世界の基が置かれる前に、キリストの内に神が回心させ、救い、聖くする者たちを選ぶという神の行為であることを教える(ローマ8:28-30; エペソ1:4-11; Ⅱテサロニケ2:13; Ⅱテモテ2:10; Ⅰペテロ1:1, 2)。

当学院は、主権的選びが、悔い改めとキリストを救い主であり主であると信じるという人の責任を否定することも、その責任に矛盾することもないことを教える(エゼキエル18:23, 32; 33:11; ヨハネ3:18, 19, 36; 5:40; Ⅱテサロニケ2:10-12; 黙示録22:17)。しかし、主権的恵みは救いという賜物を受ける方法とその賜物自体を含むがゆえに、主権的選びは神の決定通りの結果をもたらせる。御父がご自身のもとに召す者は例外なく信仰を持って神のもとに行き、信仰を持って神のもとに来る者を神は受け入れられる(ヨハネ6:37-40, 44; 使徒13:48; ヤコブ4:8)。

当学院は、完全に堕落した罪人に与えられる不相応な神の恵みは、罪人自身の何らかの決断や、人がする選択に対する神の予知に基づいて与えられるのではなく、神の主権的恵みとあわれみによってのみ与えられることを教える(エペソ1:4-7; テトス3:4-7; Ⅰペテロ1:2)。

当学院は、選びを単なる理論上の主権に基づいて理解するべきではないことを教える。神は真に主権者であるが、神は特に全知性、正義、聖、知恵、恵み、また愛といった神の全ての属性との調和の内にこの主権を用いられる(マタイ11:25-28; Ⅱテモテ1:9)。

新生

当学院は、新生は神の性質といのちが与えられるという聖霊の超自然的な働きであることを教える(ヨハネ3:3-8; テトス3:5)。これは悔い改めた罪人が、聖霊の助けによって神が備えてくださった救いに信仰をもって応答するときに、瞬間的に起こる神のことばを媒介として聖霊の力によってのみ達成されるものである(ヨハネ5:24)。真の新生は、正しい態度と行動によって証明される悔い改めにふさわしい実によって明示される(Ⅰコリント6:19-20; エペソ5:17-21; ピリピ2:12; コロサイ3:12-17; Ⅱペテロ1:4-11)。この従順は信徒を主イエス・キリストの似姿にますます変えていく(Ⅱコリント3:18)。このキリストの似姿への変容は、キリストの再臨の時に起こる信徒の栄化において頂点を迎える(ローマ8:16, 17; Ⅱペテロ1:4; Ⅰヨハネ3:2, 3)。

義認

当学院は、神の前で義とされるとは、神が、キリストへの信仰のゆえに自らの罪を悔い改め(イザヤ55:6, 7; ルカ13:3; 使徒2:38; 3:19; 11:18; ローマ2:4; Ⅱコリント7:10)、キリストを主権者である主人として告白した者たち(ローマ10:9, 10; Ⅰコリント12:3; Ⅱコリント4:5; ピリピ2:11)に対して、義を宣告するという神の業であることを教える(ローマ8:30, 33)。この義は人の美徳や行いとは一切関係がない(ローマ3:20; 4:6)。これは私たちの罪をキリストに置き(コロサイ2:14; Ⅰペテロ2:24)、キリストの義が私たちに転嫁されることに基づいている(Ⅰコリント1:2, 30; 6:11; Ⅱコリント5:21)。これによって神は「義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」(ローマ3:26)ことができるのである 。

聖化

当学院は、全ての信徒は義認によって神に聖別された者であり、それゆえに聖なる者と宣告され、聖徒となっていることを教える。この聖化は瞬間的にもたらされる信徒の立場に関することであり、漸進的聖化と混同してはならない。この聖化は信徒の身分に関することであり、現在の歩みや状態に関することではない(使徒20:32; 1コリント1:2, 30; 6:11; 2テサロニケ2:13; ヘブル2:11; 3:1; 10:10, 14; 13:12; 1ペテロ1:2)。

当学院は、聖霊の働きによってもたらされる漸進的聖化があることを教える。これは神のことばへの従順と聖霊の力づけを通して信徒の状態がキリストの似姿に近づけられていくことである。これによって信徒は神のみこころに沿ったより聖い人生を歩むようになり、主イエス・キリストに似た者に変えられていく(ヨハネ17:17, 19; ローマ6:1-22; Ⅱコリント3:18; Ⅰテサロニケ4:3, 4; 5:23)。

当学院は、救われた全ての人が、日々キリストにある新しい創造と肉の性質との間にある葛藤の中にいるが、内住する聖霊の力によって勝利を収めるに十分な助けが備えられていることを教える。しかし、この葛藤は地上での生涯が続く限り継続し、それが終わることはない。それゆえに、この生涯における罪の完全な根絶を説くあらゆる教えは、非聖書的なものである。罪の根絶は起こり得ないが、聖霊は罪に対する勝利を備えてくださる(ガラテヤ5:24; エペソ4:22-24; ピリピ3:12; コロサイ3:9, 10; Ⅰペテロ1:14-16; Ⅰヨハネ3:5-9)。

保証

当学院は、一度救われ贖われた者はすべて、神の力によって守られているがゆえに、キリストのうちにあって永遠に救いが保証されていることを教える(ヨハネ5:24; 6:37-40; 10:27-30; ローマ5:9, 10; 8:1, 31-39; Ⅰコリント1:4-9; エペソ4:30; ヘブル7:25; 13:5; Ⅰペテロ1:4, 5; ユダ24)。

当学院は、聖書の教えに基づいて自らの救いの確信を喜ぶことは信徒の特権であることを教える。同時にクリスチャンの持つ自由を罪の生活や肉欲を満たすことの言い訳にしてはならないと聖書が明示していることを教える(ローマ6:15-22; 13:13, 14; ガラテヤ5:13, 16, 17, 25, 26; テトス2:11)。

分離

当学院は、旧約・新約聖書を通して罪からの分離が要求されていること、そして聖書がはっきりと終わりの日に背教と世俗的になる人々が横行すると告げていることを教える(Ⅱコリント6:14-7:1; Ⅱテモテ3:1-5)。

当学院は、救われた者はすべて、神への心からの愛を証明するように、また私たちの救い主であり主である方の名を汚すことのないように生きるべきであることを教える。このような生き方は、私たちに与えられた、受けるにふさわしくない神の恵みに対する深い感謝の心から、そして偉大なる神が私たち自身を完全に献げるにふさわしい方であるがゆえに為されるのである。また当学院は、宗教的な背教と世俗的で罪に満ちた行動からのあらゆる関わりからの分離を神が私たちに命じていることを教える(ローマ12:1, 2; Ⅱコリント7:1; ヘブル12:14; テトス2:11-14; Ⅰヨハネ3:1-10)。

当学院は、イエス・キリストを信じるすべての者は聖霊によってすぐに一つの霊的からだである教会(Ⅰコリント12:12, 13)、キリストの花嫁(Ⅱコリント11:2; エペソ5:23-32; 黙示録19:7, 8)に加えられることを教える。このからだの頭は、キリストである(エペソ1:22; 4:15; コロサイ1:18)。

当学院は、キリストのからだである教会は、ペンテコステの日に設立され(使徒2:1-21, 38-47)、キリストがご自身の民の為にやって来られる空中携挙の時に完成することを教える(Ⅰコリント15:51-52; Ⅰテサロニケ4:13-18)。

それゆえ当学院は、教会が生まれ変わった信徒たちだけによって構成されているキリストによって作り出されたこの時代における独特の組織であることを教える(エペソ2:11-3:6)。教会はイスラエルとは別の存在であり(Ⅰコリント10:32)、この時代まで啓示されることのなかった奥義である(エペソ3:1-6; 5:32)。

当学院は、新約聖書において地域教会の設立と継続が明確に教えられ、定義づけられていることを教える(使徒14:23, 27; 20:17, 28; ガラテヤ1:2; ピリピ1:1; Ⅰテサロニケ1:1; Ⅱテサロニケ1:1)。また、霊的からだに属する者は、地域の集会において共に行動するように命じられていることを教える(Ⅰコリント11:18-20; ヘブル10:25)。

当学院は、聖書に記されているとおり、教会における唯一最高の権威者はキリストであること(エペソ1:22; コロサイ1:18)、またリーダーシップ、賜物、制度、戒規、教会における礼拝はすべてキリストの主権によって定められていることを教える。聖書は長老たち(監督、牧師、また牧師-教師とも呼ばれる男性たち; 使徒20:28; エペソ4:11)と執事たちがキリストの下で仕え、教会の上に立つ者たちであることを定めている。長老たちも執事たちも聖書が定める資質に適う人物でなければならない(Ⅰテモテ3:1-13; テトス1:5-9; Ⅰペテロ5:1-5)。

当学院は、これらのリーダーたちがキリストのしもべとして教会を導き、治めること(1テモテ5:17-22)、また教会を導くに当たって、キリストの権威を彼らが有していることを教える。会衆は彼らのリーダーシップに従わなければならない(ヘブル1:7, 17)。

当学院は、弟子訓練(マタイ28:19, 20; Ⅱテモテ2:2)、互いに対する全信徒の相互責任(マタイ18:15-17)、そして聖書の規準に沿って実践される罪を犯している教会員に対する戒規の必要(マタイ18:15-22; 使徒5:1-11; Ⅰコリント5:1-13; Ⅱテサロニケ3:6-15; Ⅰテモテ1:19, 20; テトス1:10-16)の重要性を教える。

当学院は、地域教会の自治を教える。地域教会は外部からの権威や支配を受けず、自治権を持ち、あらゆる個人的または組織的階層制を持たないものである(テトス1:5)。当学院は、複数の真の教会が信仰の提示と普及(伝道)の為に協力することは聖書的なことであることを教える。ただし、どのような協力をし、どれくらい協力するのかということに関して、地域教会はそれぞれの牧師と彼らの聖書解釈と適用に基づいて決断するべきである(使徒15:19-31; 20:28; Ⅰコリント5:4-7, 13; Ⅰペテロ5:1-4)。

当学院は、教会が自らを信仰において建て上げ(エペソ4:13-16)、みことばを教え(Ⅱテモテ2:2, 15; 3:16-17)、交わりを保ち(使徒2:47; Ⅰヨハネ1:3)、礼典を守り(ルカ22:19; 使徒2:38-42)、福音を全世界に宣べ伝える(マタイ28:19; 使徒1:8)ことによって神に栄光を帰すことが、教会の存在目的であることを教える(エペソ3:21)。

当学院は、全信徒が奉仕の働きに召されていることを教える(Ⅰコリント15:58; エペソ4:12; 黙示録22:12)。

当学院は、神が地上においてその目的を達成する際に、教会が協力する必要があることを教える。この為に神は教会に霊的賜物を与えている。神は特定の人々を、聖徒を整え、奉仕の働きをさせる為に選び(エペソ4:7-12)、またキリストのからだに属する一人一人の信徒に、独特で特別な霊的能力を与えている(ローマ12:5-8; Ⅰコリント12:4-31; Ⅰペテロ4:10, 11)。

当学院は、初代教会において二種類の賜物が与えられていたことを教える。一つは直接的啓示と癒しなどの奇蹟に関する賜物という、使徒たちのメッセージが信頼の置けるものであることを確証する為に一時的に与えられた賜物であり(Ⅱコリント12:12; ヘブル2:3, 4)、もう一つは働きに関する賜物という、信徒が互いの徳を高め合うことによって成長する為に与えられた賜物である。新約聖書の啓示が完成した今、聖書が人の語るメッセージの信憑性を証明する唯一の基準であり、メッセージを語る人物やそのメッセージを証明するという役割を持った奇蹟に関する賜物は、その役割をすでに終えている(Ⅰコリント13:8-12)。今日与えられている賜物は、啓示に関連しない、教化の為に与えられている働きに関する賜物だけである(ローマ12:6-8)。

当学院は、今日誰一人として癒しの賜物を有する者はいないが、神は信仰による祈りに耳を傾け、病に冒されている者や苦しんでいる者に対する神ご自身の完全なみこころに沿って答えてくださることを教える(ルカ18:1-8; ヨハネ5:7-9; Ⅱコリント12:6-10; ヤコブ5:13-16; Ⅰヨハネ5:14, 15)。

当学院は、地域教会に対してバプテスマと聖餐式という二つの礼典が与えられていることを教える(使徒2:38-42)。クリスチャンになった者が受ける浸礼によるバプテスマ(使徒8:36-39)は、救い主の十字架、埋葬、そして復活に対する信徒の信仰の尊厳で美しい証であり、信徒自身の罪に対する死と新しいいのちへの復活によってもたらされるキリストと結合を証するものである(ローマ6:1-11)。またこれは、目に見えるキリストのからだ(教会)との交わりと、同一であることのしるしでもある(使徒2:41,42)。

当学院は、聖餐式がキリストの再臨の日まで為されるべきキリストの死の記念と宣言であること、そして聖餐式は必ず厳粛な自己吟味の後に行われなければならないものであることを教える(Ⅰコリント11:23-32)。当学院は、聖餐式の際に用いられるパンとぶどう酒(ジュース)はキリストの身体と血の象徴でしかないが、聖餐式は特別な形で臨在し、ご自身の民と交わりを持っておられるキリストとの実際の交わりの時であることを教える(Ⅰコリント10:16)。

聖い天使

当学院は、天使たちが被造物であること、それゆえ礼拝の対象ではないことを教える。天使は人よりも高位の被造物であるが、神に仕え、神を礼拝する為に創造されている(ルカ2:9-14; ヘブル1:6, 7, 14; 2:6, 7; 黙示録5:11-14)。

堕落した天使

当学院は、サタンは被造物である天使の一人で、罪の創始者であることを教える。サタンは、彼の創造者に反逆することによって神からの裁きを受ける者となった(イザヤ14:12-17; エゼキエル28:11-19)。サタンはその堕落の際に多くの天使たちを道連れにし(マタイ25:41; 黙示録12:1-14)、エバを誘惑することによって人類に罪をもたらした(創世記3:1-15)。

当学院は、サタンが公然に神と人の敵として宣言された存在であり(イザヤ14:13, 14; マタイ4:1-11; 黙示録12:9. 10)、イエス・キリストの死と復活によって敗北を喫したこの世の支配者であり(ローマ16:20)、火の池において永遠に罰を受ける者であることを教える(イザヤ14:12-17; エゼキエル28:11-19; マタイ25:41; 黙示録20:10)。

当学院は、肉体的な死によって、非物質的な意識が喪失することはなく(黙示録6:9-11)、魂と肉体が分離され(ヤコブ2:26)、救われた者の魂はすぐにキリストの臨在のもとに行くことを教える(ルカ23:43; Ⅱコリント5:8; ピリピ1:23)。また、救われた者に対してこの分離の状態は、第一の復活が始まる(黙示録20:4-6)空中再臨の時まで継続することを教える(Ⅰテサロニケ4:13-17)。この空中再臨時にクリスチャンの魂と肉体は再結合され、栄光の身体に変えられ、主と共に永遠を過ごすようになる(Ⅰコリント15:35-44; 50-54; ピリピ3:21)。その時まで、キリストにあって救われた者の魂は私たちの主イエス・キリストとの喜びに満ちた交わりの内にとどまっている(Ⅱコリント5:8)。

当学院は、すべての人が肉体を持って、救われた者は永遠のいのちへと(ヨハネ6:39; ローマ8:10, 11, 19-23; Ⅱコリント4:14)、そして救われていない者は裁きと終わることのない罰へと(ダニエル12:2; ヨハネ5:29; 黙示録20:13-15)復活することを教える。

当学院は、死を迎えたときに救われていない者の魂は、魂と復活した身体が再結合される(ヨハネ5:28, 29)第二の復活の時まで罰を受け続けることを教える(ルカ16:19-26; 黙示録20:13-15)。その後これらの者たちは白い御座の裁きに引き出され(黙示録20:11-15)、火の池である地獄に投げ入れられ(マタイ25:41-46)、神のいのちから永遠に切り離される(ダニエル12:2; マタイ25:41-46; Ⅱテサロニケ1:7-9)。

教会の携挙

当学院は、7年間の艱難時代前に主は、この地上からご自身の教会を天に召す(ヨハネ14:1-3; Ⅰコリント15:51-53; Ⅰテサロニケ4:15-5:11)為に、またこの空中再臨と聖徒を伴って栄光の内にやって来られる地上再臨の間に、一人一人の行いに応じて信徒に報いを与える為に(Ⅰコリント3:11-15; Ⅱコリント5:10)、私たちの主イエス・キリストが直接、肉体を持って再臨されることを教える(Ⅰテサロニケ4:16)。

艱難時代

当学院は、地上から教会が取り除かれた直後から(ヨハネ14:1-3; Ⅰテサロニケ4:13-18)、神の正当な裁きが信仰のない世に与えられ(エレミヤ30:7; ダニエル9:27; 12:1; Ⅱテサロニケ2:7-12; 黙示録16)、これらの裁きがキリストが栄光の内に地上に再臨されることをもって頂点を迎えることを教える(マタイ24:27-31; 25:31-46; Ⅱテサロニケ2:7-12)。この時、旧約時代の聖徒と艱難時代に救われた聖徒は復活し、生きている者たちは裁かれる(ダニエル12:2-3; 黙示録20:4-6)。この期間はダニエルの70週の預言を含んでいる(ダニエル9:24-27; マタイ24:15-31; 25:31-46)。

地上再臨と千年王国

当学院は、艱難時代の終了後、キリストが地上に来られてダビデの王座に就き(マタイ25:31; ルカ1:32, 33; 使徒1:10, 11; 2:29, 30)、地上で千年間に渡るメシアの王国を設立することを教える(黙示録20:1-7)。この時代に、復活した信徒たちはキリストと共にイスラエルと地上のすべての国々を治める(エゼキエル37:21-28; ダニエル7:17-22; 黙示録19:11-16)。この支配は反キリストと偽預言者が打ち破られ、サタンがこの世から取り除かれた後に起こる(ダニエル7:17-27; 黙示録20:1-6)。

当学院は、この王国自体が自らの不従順のゆえに権利を放棄した彼らの土地にイスラエルの民を連れ戻すという(申命記28:15-68)、イスラエルに対する神の約束の成就であることを教える(イザヤ65:17-25; エゼキエル37:21-28; ゼカリヤ8:1-17)。不従順の結果、イスラエルは一時的に退けられたが(マタイ21:43; ローマ11:1-26)、悔い改めを通して再び目覚め、祝福の土地へと導き入れられる(エレミヤ31:31-34; エゼキエル36:33-38; ローマ11:25-29)。

当学院は、主によって統治されるこの時代が、調和と公正と平和と義と長寿によって特徴付けられ(イザヤ11; 65:17-25; エゼキエル36:33-38)、サタンの解放と共に終わりを告げることを教える(黙示録20:7)。

救われていない者の裁き

当学院は、キリストによる千年間の統治の後にサタンが解放されると(黙示録20:7)、サタンは地上の民を惑わし、聖徒と聖なる都に戦いを挑む為に彼らを集め、その戦いにおいてサタンとその軍勢は天から送られる火に飲み込まれることを教える(黙示録20:9)。これに続いて、サタンは火と硫黄の池に投げ込まれ(マタイ25:41; 黙示録20:10)、すべての人の裁き主であるキリストは(ヨハネ5:22)、白い御座の裁きにおいて大きい者も小さい者も皆よみがえらせ、裁かれる。

当学院は、この救われずに死んだ者たちが裁かれる為に起こる復活が肉体的な復活であり、これによって彼らは裁きを受け(ヨハネ5:28, 29)、火の池における、意識を持ったままで受ける終わることのない罰に入れられることを教える(マタイ25:41; 黙示録20:11-15)。

永遠

当学院は、千年王国、サタンの一時的解放、そして未信者の裁きの後に(Ⅱテサロニケ1:9; 黙示録20:7-15)、救われた者たちが神と共にある永遠に続く栄光の状態に入れられること、その後にこの世の構成要素が消滅し(Ⅱペテロ3:10)、義なる者たちだけが存在する新しい地に取って代わることを教える(エペソ5:5; 黙示録20:15, 21, 22)。

この後に天の都が天からやって来て(黙示録21:2)、聖徒の住まいとなり、そこで彼らは永遠に神との交わりと互いの交わりを楽しむ(ヨハネ17:3; 黙示録21, 22)。私たちの主イエス・キリストは、救いの働きを完了され、この王国を父なる神に明け渡し(Ⅰコリント15:23-28)、あらゆる領域において三位一体の神が永遠に君臨するようになる(Ⅰコリント15:28)。