近年、多くのキリスト教会で語られるメッセージの中で「自分を愛することが必要である」ということが語られています。しかし、聖書には「自分を愛しなさい」という命令は出てきません。ではどうして神がこのような命令をしているかのように教えられているのでしょう?聖書は自己愛に関して何を教えているのでしょう?

「自分を愛せないと人を愛せない」という考え方は、キリスト教の歴史の中でも非常に新しい見解で、1900年代後半(特に80年代以降)になって教会で語られるようになった教えです。その背景には「心理学」の影響が多分にあり、事実「クリスチャンカウンセラー」と呼ばれるいわゆる「統合主義者」(心理学とキリスト教を統合したカウンセリングを行う人)たちによって広められた教えです。そして彼らがこの教理の正当性を証明するために最もよく用いる箇所がマタイ22:39とその平行箇所です。事実これらの統合主義者の中には「この『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という命令は近年に至るまで正しく理解されてこなかった」と豪語する人もいるくらいです。

マタイ22:37–40で、律法の専門家の質問「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」という質問の回答として主は次のように語っています。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これが第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めもそれと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

この箇所には「主を愛する」ということと「隣人を愛する」という二つの命令が出てきますが、この箇所で自己愛の重要性を訴える人たちはここに第三の命令—「自分を愛する」—を見出します。しかも彼らはこの命じられていない命令こそが、主が教えた実際の命令を実践するための土台となっているかのように教えるのです。つまり「まず自分自身を愛することができていないで、どうして他の人を愛せますか?」と教えるのです。

前述のように、聖書には「自分を愛しなさい」という命令はありません。また問題となるマタイ22:39や平行箇所でもそんな命令はされていません。こうした理解をする人たちは、一般的に推奨されている「自己尊厳」や「自己愛」などの重要性を前提としていて、その教えを聖書に見つけようという読み方をしています。つまり、聖書が教えていることに基づいて考えを形成するのではなく、すでに確信していることを聖書から見つけ出そうとしている訳です。こうした「自分の考えの読み込み」をすることは聖書解釈上大変危険なことで、真剣に聖書を学ぼうとする者たちは絶対に注意していなければならないことです。

マタイ22章のイエスの教えを理解する上で参照すべき箇所はエペソ5:28–29です。そこでパウロはイエスの教えと似たことを、非常に近い表現を使って話しています。夫が妻を愛するに当たって、「自分のからだを愛するように」という表現を使っていますが、そのことを説明する際にパウロは29節で「誰も自分の身を憎んだ者はいません。かえってこれを養い育てます。」と記しています。これは、すでに夫が妻を愛する前から自分の身体を愛していることを明言しています。

マタイ22:39もエペソ5:28も「自分を愛する」ということが、命令ではなく前提として語られていることに注目しなければなりません。つまり、もうすでに人間は自分たちのことを十分以上に愛しているのです。だからこそイエスは自分を捨てることや、いのちを憎むことが必要であることを繰り返し教え、クリスチャンが自分を愛することではなくて、主を愛し、隣人を愛することを要求するのです。

ルカ10:30–37に記されている「良いサマリヤ人のたとえ」は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(ルカ10:27)という命令に関して律法の専門家の「では、私の隣人とは、だれのことですか」という質問の回答として与えられているたとえ話です。ここで注目すべきは強盗に襲われた人の真の隣人は、自分のことを顧みずに、犠牲を払ってあわれみをかけたサマリヤ人であったということです。

新改訳ではマタイ22:39の終わりを「それと同じようにたいせつです。」と訳していますが、原文は英語と同じように ”The second is like it” となっています。「同じ」なのは「大切さ」ではなく、37節に出てくる命令の内容との共通性を告げていると理解するべきでしょう。何が同じなのかというのは、単に愛についての命令であるということだけではなく(それはあまりにも当たり前すぎる観察です)、両方とも自分自身の全身全霊をもって愛するということが強調されているということです。人はすでに自分を排他的に愛する者です。その自分を愛するのと同じように隣人を愛するということは、ルカ10章にあるように必要を持っている人たちに対して自分のことを犠牲にしてまで必要を満たす愛を示すこと以外の何者でもありません(事実、祭司やレビ人が強盗に遭った人に愛を示さなかったのは、自己愛に欠落していたからではないでしょう)。エペソ5:25–29を見ても、同じことが言えます。キリストが教会を愛し、ご自身を捧げられたように夫は妻を愛することが命じられる中で、その愛情が自分のからだを愛することと照らし合わせて書かれているのです。

最後に、第二テモテ3:2には、「自分を愛する者」というのが終わりの時代に起こる悪いことのリストの先頭に書かれていて、明らかにこうした「自己愛」というのが主が求めていることとは異質のものであることが記されています。むしろ聖書的な人間観を持つと、私たちは「自分を愛する」ことができなくなるのではないでしょうか?

このような教えが横行する原因はいろいろとあるだろうと思いますが、一般的に受け入れられている「非聖書的な常識」をキリスト教会が受け入れ、その過程で「非聖書的な教え」を聖書的に裏付けようと努力してきたことは、大きな原因のひとつでしょう。また聖書を正しく解釈するということに関心が薄れていく時に、イエス自身が「律法全体と預言者とがこの二つの戒めにかかっているのです」と明確に宣言されているにもかかわらず、「第三の戒め」を人々に教えるようなことになるのです。ヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言います(1ヨハ4:20)。隣人を愛するのは、神を愛する者に変えられたからであって、自分を愛するようになったからではないのです。

私たちは聖書の教えを正しく理解することに努めなければなりません。自分たちの考えや世の教えを聖書の中に読み込むのではなく、聖書の教えに基づいて自分たちの考えを変えていくことをしなければならないのです。

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参考文献:Jay E. Adams, The Biblical View of Self-Esteem, Self-Love, Self-Image (Harvest Hose Publishing, Eugene, OR: 1986).