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第10章「平凡という危機」
7月28日
読了時間: 2分
更新日:8月5日
平凡さへの鈍感
説教は準備すればよい。
礼拝は無事に終わればよい。
会衆が満足すればよい。
日曜日を乗り越えることができればよい。
「〜すればよい。」という考えが少しずつ入り込むとき「神の前」ではなく「人の前」で奉仕するようになります。
私たちは「平凡さ」を当然としてはいないでしょうか。
もちろん、忙しいさはあります。訪問があり、会議があり、相談があり、事務作業もあり、夜中に突然電話がかかってくることも珍しくないでしょう。
私たちたちは、働きが業務的になってしまう時に重要な務めを思い起こすべきなのです。
説教者としての重要な務め
重要な務め、それは、神の言葉を語ることです(Ⅱテモテ4章1節〜)。
本章は、説教者の務めを決して蔑ろにしてはいけない!という内容が強調されています。
特に著者は、説教者が準備において十分に時間を設けて、自分に語り、講壇へと向かうべきだと強く主張します。
具体的に彼は自身の準備を次のように伝えます。
‥説教の1週間前に、自分の伝えようとしている聖書の真理と初めて出会っているようでは遅すぎるということです。1週間では、内容とコミュニケーションの準備時間が十分とは言えません。私は、説教する場所がどこであっても、前もって準備するようにしています。つまり、私が内容を準備するのは、実際に説教する3~4週間前のメッセージということです。これにより、真理が自分の心の中で熟成し、より深く実践的に理解される時間が与えられます。そして説教する週には、その説教を15~20回ほど自分自身に向かって声に出して説教します。そうすることで、その箇所への理解が深まり、またそれを伝える創造的な方法も発展していくのです。
もちろん、これは、著者と同じように、全ての人が同じステップを辿るべきだ、という命令ではありません。
私たちの確信
しかし、主要な原則について、著者は確信をもって伝えます。
説教が準備不十分で、聖書解釈に妥協し、平凡さに対する危機感さえ持たない働き人でいてはいけない、という確信です。
たとえ忙しくても、確かな使命を胸に刻み、取り組む者でありたいものです。
どうか使命を全うしたいと心から願う者であり続けれますように。
そのような歩みは、決して「平凡さ」を当然のものとするミニストリーには向かわないでしょう。



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