フスのように生きる Part3 「ガチョウは沼を歩けるのか」
- 8月18日
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語ることをやめなかったフス
破門されても、ヤン・フスは黙りませんでした。
教皇の命令によって説教を禁じられ、ベツレヘム教会での働きも妨げられます。さらに、彼が説教を続ける限り、その教会に集う人々は聖餐にあずかることも、教会の墓地に埋葬されることもできないという厳しい布告まで出されました。
フスは、自分のために教会の人々が苦しむことを望みませんでした。そこで彼は公の働きから退きます。しかし、それは敗北ではありませんでした。
『教会論』に込められた信念
静かな場所へ退いたフスは、1412年、後世に大きな影響を与える一冊の著作を書き上げます。それが『教会論(De Ecclesia)』です。
その中心にあった主張は、一つだけでした。「キリストだけが教会のかしらである。」
教皇であっても、皇帝であっても、教会を支配する存在ではありません。教会の主人は、ただイエス・キリストだけなのです。だからフスは語ります。
「反聖書的に権威を行使する教皇に背くことは罪ではない。それは、私たちの義務なのです。」
この言葉は、当時の教会制度そのものへの挑戦でした。当然、教会は耳を貸しません。フスの訴えは拒絶され、対立は決定的なものとなっていきます。
日本という「沼」
一人の日本人作家が、同じように信仰と権威の葛藤を描きました。遠藤周作の小説『沈黙』です。舞台は17世紀初頭の日本。
宣教師クリストヴァン・フェレイラは、日本で激しい迫害を受け、ついには棄教します。その知らせを聞いた若い司祭ロドリゴも日本へ渡りますが、彼もまた究極の選択を迫られます。
物語の中で、日本について印象的な言葉が語られます。
「この国は沼だ。」
どんな植物も根を張ることができず、形を変えられてしまう土地。遠藤周作は、日本という文化の難しさを、この「沼」という言葉で表現しました。
もしフスが日本にいたら‥
さて、もし、ヤン・フスが日本へ遣わされていたら、どうなっていたでしょう。
ガチョウは水辺では軽やかに泳ぐことができます。
しかし、深い沼は得意ではありません。
日本という「沼」で、フスの働きも思うようには進まなかったかもしれません。
けれども、それは失敗なのでしょうか。聖書は、成功した者だけを忠実な僕とは呼びません。神が求められるのは、大きな結果ではなく、どんな状況にあっても忠実であることです。
フスは、教会が耳を貸さなくても語りました。
説教を禁じられても、書き続けました。
火刑が待っていても、キリストを主と告白し続けました。
彼が忠実だったのは、働きの成果ではなく、キリストご自身に対してでした。私たちもまた、福音がすぐに受け入れられない社会に生きています。だからこそ、フスの歩みは現代にも問いかけます。
私たちは、結果に忠実なのでしょうか。それとも、キリストに忠実なのでしょうか。
次回はいよいよ最終回です。火刑台で賛美を歌ったフスの最後の姿、そして「あなたたちは今日、ガチョウを焼くが、百年後には白鳥が現れる」という有名な言葉を通して、現代の日本に生きる私たちへのメッセージを考えます。
参考文献
MacArthur, John F. Slave: The Hidden Truth About Your Identity in Christ.
Nashville: Thomas Nelson, 2010.
Jones, R. T. “Hus, John (1372/3–1415).” In New Dictionary of Theology: Historical
and Systematic, edited by Martin Davie et al., 432. London; Downers Grove, IL: Inter-Varsity
Press, 2016.
Hus, John. The Church. Translated by David S. Schaff. New York: Charles
Scribner’s Sons, 1915.
Obata, Susumu. “Silence (Chinmoku).” Christus Solus Audiendus 4, 1988.



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