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Part4 説教者とは誰か ― カルヴァンの考える説教者像

  • 8月18日
  • 読了時間: 3分


The Identity of the Preacher(説教者とは誰か)


説教者とは、どのような存在なのでしょうか。

現代では、説教者に求められるものとして、話す技術やカリスマ性、リーダーシップなどが挙げられることがあります。


しかし、宗教改革者ジャン・カルヴァンは、説教者の本質をまったく別のところに見ていました。彼にとって説教者とは、神の御言葉に仕えるしもべでした。説教者の役割は、自分を目立たせることではありません。


キリストを人々の前に示すことなのです。


① 「Sacred Eloquence(聖なる雄弁)」

カルヴァンは、説教を世俗的な弁論とは明確に区別していました。優れた弁論家は、人を説得し、人の心を動かします。


しかし、説教にはそれ以上の尊厳があります。

カルヴァンは、その尊厳を「神がご自身の民に語られること」に見いだしました。福音が忠実に語られるとき、それは単なる人間の言葉ではありません。


神ご自身が、ご自身の民に向かって語っておられる出来事なのです。


だから説教者は、自分の話術や才能に頼ることはできません。語られるべきなのは、人間の知恵ではなく、神の御言葉だからです。


講壇は、人間の能力を示す舞台ではありません。神の御声が響く場所なのです。


② 「The Mandate of Humility(へりくだりという使命)

説教者には深い謙遜が求められます。カルヴァンは、説教者は自分自身を前面に出してはならないと教えました。


説教者の個性や名声が注目されるのではなく、御言葉そのものが聞かれなければなりません。

また、説教は一部の知識人だけのものでもありません。


最も学識のある人だけでなく、最も単純な人にも届くものでなければなりません。説教者は、自分の博識を示すためではなく、神の真理を分かりやすく取り次ぐために立っています。


聞き手が、

「何と賢い説教者だろう。」

と思うなら、説教者は失敗しているのかもしれません。

しかし、「神が聖書を通して私に語ってくださった。」と言うなら、その説教は本来の役割を果たしているのです。


③ 「The Preacher as a Fellow Student(説教者もまた学ぶ者)」

カルヴァンは、説教者を「教師」である前に、神の御言葉を学ぶ一人の弟子として理解していました。


彼はこのように語っています。

「私もまた学生です。私の口から語られる言葉は、あなたがたを益するのと同じように、私自身をも益さなければなりません。そうでなければ、最も悲惨なのは私です。」

この言葉には、彼の説教者の姿勢がよく表れています。説教とは、人に教えるためだけのものではありません。


説教者自身が、まず御言葉の前に立ち、教えられ、悔い改め、励まされる必要があります。


説教者だけが御言葉の外側に立つことはできません。説教者もまた、会衆と同じように、神の御言葉によって養われる一人の信仰者なのです。


私たちへの問い

私たちは、説教者に何を期待しているでしょうか。


話が上手であることでしょうか。

知識が豊富であることでしょうか。

もちろん、それらも大切な要素です。


しかしカルヴァンは、それ以上に重要なことを教えています。説教者とは、神の御言葉を忠実に取り次ぐ者です。へりくだりをもって御言葉に仕え、自らもその御言葉に従う者です。


そして、説教を通して人々が説教者ではなく、キリストご自身を見ることを願う者です。

だからこそ、説教者は常に自分に問い続けなければなりません。

「人々は私を見ているのだろうか。それとも、キリストを見ているのだろうか。」


カルヴァンが目指した説教者とは、自らの名を高める人ではありませんでした。神の御言葉を忠実に語り、その栄光だけが現されることを願うしもべだったのです。

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