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Part3 カルヴァンの説教の性質

  • 8月18日
  • 読了時間: 3分

説教とは神ご自身の言葉を取り次ぐ働きです。

カルヴァンは次のように語っています。

「私たちが講壇に立つのは、自分の夢や空想を語るためではありません。神の口から語られるように語るためです。……自分の考えを持ち出すのではなく、神の真理を純粋に保ち、それを語ることによって人々を建て上げ、神の栄光が現されるようにしなければなりません。」

説教とは、自分の経験や考えを披露する時間ではありません。説教者は、自分自身を語るのではなく、神がすでに語られた御言葉を忠実に語る者なのです。


では、この説教観は、カルヴァンの実際のミニストリーにどのように表れたのでしょうか。


① Lectio Continua(逐次講解説教)

カルヴァンは、生涯を通してLectio Continua(逐次講解説教)を実践しました。今日では「連続講解説教」と呼ばれています。


説教者が毎週好きなテーマを選ぶのではありません。聖書そのものが、次に語るべき内容を決めます。


この姿勢を象徴する出来事があります。カルヴァンはジュネーブから追放され、およそ三年間その町を離れることになりました。その後、再びサン・ピエール教会の説教壇へ戻ります人々は、復帰を記念する特別な説教を期待したかもしれません。


しかし、カルヴァンは違いました。彼は、追放される前に説教していた箇所の、次の節から語り始めたのです。これは、説教の中心が説教者ではなく、聖書そのものであることを示しています。カルヴァンにとって重要だったのは、自分が戻ってきたことではありません。神の御言葉を、順番に、忠実に語り続けることでした。


② A Living Work(生きた働き)

カルヴァンは、説教を単なる神学講義とは考えていませんでした。


説教とは、礼拝の中で神がご自身の民に語られる「生きた働き」です。神の御言葉は、礼拝堂の中だけで終わるものではありません。


仕事へ向かう人にも、

家庭で悩む人にも、

病と向き合う人にも、

子どもにも、

高齢者にも、

その日の必要に応じて語りかけます。


だから説教は、知識を増やすためだけのものではありません。神が御言葉によってご自身の民を養い、慰め、戒め、励まし、造り変えてくださる出来事なのです。


カルヴァンにとって説教とは、「聖書について語ること」ではなく、神が今も御言葉によって働いておられる場でした。


③ "Sown in the Wind"(風に蒔かれる種)

カルヴァンは、説教と神学書を明確に区別していました。神学書は、研究し、熟考し、体系的に学ぶために用いられます。


しかし説教は違います。説教は、その場で語られ、会衆の生活の中へ送り出される「生きた言葉」でした。

ある人は職場へ戻ります。

ある人は家庭へ帰ります。

ある人は悲しみの中へ、

ある人は喜びの中へ帰っていきます。

同じ御言葉が、それぞれの人生へと蒔かれていくのです。


だから、この説教はしばしばSown in the Wind(風に蒔かれる種)と表現されます。

語られた言葉は、風に流されて消えてしまうように見えるかもしれません。


しかし神は、その御言葉を人々の心に蒔かれます。


そして時が来ると、

悔い改めとなり、

慰めとなり、

信仰となり、

従順という実を結びます。


カルヴァンは、その働きを信じて説教壇に立ち続けました。


私たちへの問い

現代では、「分かりやすい伝え方」「面白いお話」「印象に残る証」が求められることがあります。もちろん、聞き手への配慮は大切です。


しかし、カルヴァンはもっと根本的な問いを私たちに投げかけます。


「説教壇から語られているのは、本当に神の御言葉なのだろうか。」


説教者は、自分自身を語るのではありません。

神を語るのです。だからカルヴァンは、一節ずつ聖書を説き明かしました。


そして、その説教を「生きた働き」と信じ、神が会衆の心に御言葉を蒔いてくださることを確信していました。その説教観は、約五百年を経た今日もなお、説教者と教会に大切なことを教え続けています。

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