Part6 カルヴァンの考える説教ののゴール
カルヴァンにとって、説教は知識を伝えることではありませんでした。
説教には、神が与えられた明確な目的があります。
それは、説教者自身が御言葉によって造り変えられ、教会が建て上げられ、神の栄光が現されることです。
① 説教者自身が御言葉によって形づくられる(The Formation of the Preacher)
カルヴァンは、説教者だけが御言葉の外側に立つことはできないと考えていました。
彼はこう語ります。
「私は語ります。しかし、私自身もまた、自分が語る言葉を聞かなければなりません。聖霊によって教えられる者とならなければならないのです。そうでなければ、私の口から出る言葉は、天から与えられたものではなく、自分の頭から出たものにすぎません。そのような言葉は、私自身にも何の益もありません。ただ空中に消えていく人間の声にすぎないのです。しかし、神から与えられた御言葉であるなら、それは信じるすべての人を救いへ導く神の力となります。」
説教者は、人に教える前に、自らが御言葉を聞く者でなければなりません。
説教は、まず説教者自身の心を造り変えるところから始まるのです。
② 教会を建て上げるため(Edification)
カルヴァンは、説教が教会を建て上げることを強く意識していました。
彼は次のようにも語っています。
「もし私が半日かけて半冊の本を説明したとしても、あなたがたのことや、あなたがたの益を少しも考えず、ただ空理空論を語り、混乱した話をするだけなら、何の役に立つでしょうか。皆さんは教会へ来た時と同じままで帰ることになります。それは神の御言葉を冒瀆し、私たちの間で何の役にも立たないものとしてしまうことです。」
カルヴァンにとって説教とは、神学的知識を披露する時間ではありませんでした。
聞く人々が御言葉によって励まされ、悔い改め、信仰において成長すること。
それこそが説教の目的でした。
説教者は、自分の知識を示すためではなく、教会を建て上げるために語るのです。
③ 神の栄光のため(His Glory)
カルヴァンの説教論は、最後には必ず神の栄光へと向かいます。
彼は聖書について、このように述べています。
「私たちは、神に払うのと同じ畏敬を聖書にも払わなければなりません。なぜなら、聖書は神からのみ出たものであり、人間的なものが何一つ混じっていないからです。」
カルヴァンにとって、説教が尊いのは、聖書が尊いからです。
そして聖書が尊いのは、それが神の御言葉だからです。
だから説教の最終目的は、人を感動させることでも、説教者を評価してもらうことでもありません。
神の栄光が現されること。
これこそが、カルヴァンが生涯を通して追い求めた説教の目的でした。
私たちへの問い
私たちは、説教に何を期待しているでしょうか。
新しい知識でしょうか。
感動でしょうか。
もちろん、それらが与えられることもあります。
しかしカルヴァンは、それ以上に大切なことを教えています。
説教とは、
まず説教者自身が御言葉によって変えられ、
教会が御言葉によって建て上げられ、
そして神の栄光が現されるためのものです。
説教の中心にあるのは、人ではありません。
神の御言葉です。
そして、その御言葉は今日もなお、教会を生かし、人々を造り変え、神の栄光を現し続けています。



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