第6章「失われた共同体」
- 6月30日
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更新日:7月10日
「牧師だから大丈夫」は危険なサイクルの兆候
牧師の失脚や教会の分裂、信頼の崩壊
その背後には、多くの場合、長い時間をかけて形成された「危険なサイクル」が存在します。つまり、問題は、ある日突然起こるものではないと言えます。
本章は、そのサイクルが共同体との牧師との関係性からくると示します。
間違った出発点↓
私たちは、牧師を育てるためには神学教育や実践的な訓練が最も重要だと考えがちです。
もちろん、それらは欠かせません。しかし、それ以上に大切なものがあります。
それは、地域教会の交わりの中で愛され、家族との関係を大切にし、牧師自身も牧されることです。
もし知識やスキルばかりが重視され、人としての成熟が軽視されるなら、危険なサイクルはすでに始まっています。
「牧師は大丈夫」という幻想↓
次に生まれるのは、非現実的な期待です。
「牧師なのだから、罪に苦しむことはない。」
「牧師なのだから、いつも霊的に強いはずだ。」
誰も口にはしません。しかし、この空気が教会にあると、牧師は次第に弱さを隠すようになります。
心ではなく、実績を見る↓
牧師を招聘するとき、私たちは何を見るでしょうか。
説教でしょうか。
神学でしょうか。
経験でしょうか。
もちろん、それらは大切です。しかし、賜物や実績ばかりを見て、その人の心や人格、人間関係を知ろうとしなければ、牧師は最初から孤立した関係の中に置かれてしまいます。
誰も介入できなくなる↓
やがて問題が起きても、牧師は助けを求めません。
「こんなことを話したら尊敬を失う。」
「牧師失格だと思われる。」
その結果、本来なら初期の段階で受けられたはずの助けを受けられなくなります。そして問題は、見えないところで大きくなっていきます。
問題は繰り返される↓
やがて問題が表面化します。
教会は牧師を辞任させます。
新しい牧師を迎えます。
しかし、本当の悔い改めも、和解も、癒やしもないまま終われば、傷は残ります。
牧師も教会も、その傷を次の働きへ持ち越してしまいます。こうして同じことが繰り返されるのです。
そして最も悲しむべきことは、
→キリストの御名が傷つけられることです。
失われた共同体を取り戻す
では、このサイクルを断ち切るために何が必要なのでしょうか。
著者は、教会文化を変える必要があると語ります。
牧師も一人の信者として愛される文化。
弱さを安心して語れる文化。
互いに教え、励まし、戒め合う文化。
聖書は、牧師だけが奉仕する教会ではなく、キリストの体として互いに仕え合う共同体を描いています(エペソ4:11–16、Ⅰコリント12:14–25、コロサイ3:15–17)。
だから最後に、私たちは自分自身に問いかけたいのです。
私は、キリストの体の「中」で生きているだろうか。
私には、心の奥まで知っている兄弟姉妹がいるだろうか。
私は、他者からの助言や戒めを歓迎しているだろうか。
そして教会は、牧師を牧する共同体となっているだろうか。
健全な教会とは、牧師が弱さを隠す教会ではありません。牧師も会衆も共にキリストの恵みに生かされ、互いを支え合いながら成熟していく共同体なのです。


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