クリスチャンと礼拝(6)—礼拝と神の栄光—

クリスチャンと礼拝(6)—礼拝と神の栄光—

「礼拝とは、内なる人が、態度、行動、思想、言葉を通して、啓示された神の真理により、賛美をもって、神のすべてに応答することである。」 『礼拝生活の喜び』という本の中でマッカーサー師は礼拝をこのように定義しました[1]。これは礼拝が日曜日の数時間だけに限定されたものではなく、救われている者の全生涯を通してなされなければならないものであることを私たちに知らしめます。私たちが自分勝手な思い込みに基づいて礼拝するのではなく、神が聖書を通して示してくださった真理に則して、全ての瞬間を神の求めに応じて生きることこそが礼拝なのです。...
クリスチャンと礼拝(5)—礼拝と教会—

クリスチャンと礼拝(5)—礼拝と教会—

ヨハネの福音書4章にでてくるイエスとサマリヤの女との対話の中で、イエスはこの女が持っていた礼拝観に異議を唱えました。そこで語られたイエスの言葉は、私たちの持っている礼拝観を吟味させるものです。私たちの多くは、礼拝というものが定められたときに、定められた場所で、ある特定の方法を持って行われるべきであるという考えを持っています。しかしイエスが答えの中に、私たちは「礼拝とは、特定の場所、時、形式に制限されるものではない」という真理を見出すことができます。ここで私たちは特に、礼拝の場所という点に焦点を当てて考えていきたいと思います。...
クリスチャンと礼拝(4)ー礼拝と神の聖さー

クリスチャンと礼拝(4)ー礼拝と神の聖さー

私たちは神の属性を考えるときそれらを礼拝と切り離して考えるべきではありません。マッカーサー博士はこのことを5章と6章でまとめてきました。神がどのような方であるかを正しく理解するとき、その知識は私たちを礼拝へと導くのです。たくさん挙げることができる神の属性の中でも、最も重要と言える属性は神の聖さです。マッカーサー師は次のように述べています。...
クリスチャンと礼拝(3)—礼拝と救い—

クリスチャンと礼拝(3)—礼拝と救い—

救いの根本には礼拝という概念が刻まれています。本来人間は神が喜ばれる完全な形で礼拝を捧げることができる者でした。アダムはエデンの園で神との完全な交わりを持ち、神に似た者として神の素晴らしさを反映させ、主を褒め称える者だったのです。しかし彼の罪は人間の存在目的である主への礼拝ということから離れさせ、罪の故に神を神とせず、己を神として崇めるような汚れ果てた存在へと返させたのです(ローマ1:19-23)。けれども、神は私たちに救いを備えることによって、私たちを再び礼拝者として主の前に立つことができる者へと変えられたのです。救いを考えるとき、...
クリスチャンと礼拝(2)—礼拝という生活—

クリスチャンと礼拝(2)—礼拝という生活—

「礼拝が、一つの場所や時、生活の部分に限られていたり、それだけに属していることはありません。利己的、肉的な生活をしながら、感謝を口にしたり、ほめたたえたりすることはでき得ません。礼拝でそんな努力をすることは邪道です。礼拝の真の行為は、礼拝生活からあふれでたものでなければならないのです。」と書き記すことによって、ジョン・マッカーサー師は日曜ごとに捧げる公同の礼拝と私たちの毎日の生活が切り放すことができないということを明言しています[1]。このことをA. P. ギブスは、その著書のなかで、次のように述べています。...