熱意のない説教者の問題

パウロがキリストから託された働きは「キリストを宣べ伝える」ことでした(コロサイ1:28)。これはキリストが彼を救い、永遠の希望を与えてくださったからです。彼はこの働きをせずにはいられませんでした。なぜならこの働きに従事することは神の召しであり、彼の喜びであり、彼に与えられていた責任だったからです。そして「私たち」と記されているように、これは単にパウロだけに与えられていた働きではありませんでした。パウロと同じように主に仕えていこうとする者たちすべてが、「せずにはいられない」働きなのです。...

どんなメッセージを語りますか

私たちが語るメッセージは、十年後、百年後に生きるクリスチャンたちが聞いても意味のあるものか、それとも今日聞いて、明日にはもう意味のないものなのかを考えます。もし聖書が時代や文化に左右されない普遍の真理で、すべての人を変える真理であるとするならば、礼拝や様々な集会で語られるメッセージは、一時的な必要を満たすものや、そこにいる人たちを心地よくさせるメッセージではないはずです。聖書的なメッセージを語るならば、そのメッセージは時代や文化に左右されることなく、いつでも、どこでも用いられるものになるのではないでしょうか。...

自分勝手な説教をしないために

「みことばを宣べ伝えなさい」という命令を実践するためには、聖書をしっかりと学び、聖書が教えていることを文脈に沿って正しく理解し、その意味を明確に伝えることが必要です。これは聖句を利用して自分の考えを伝えることでも、単に使われている単語を説明することでもありません。著者が伝えようとしている意図から外れたことを語るならば、それはみことばを宣べ伝えることではなく、自分の意見を語っているだけなのです。...

人に喜ばれる福音という矛盾

聖書は私たちに罪があることを明確に示しています。そして、その罪を正しく理解することなしに、私たちは福音を理解することはないのです。J. I. パッカー師は「罪を自覚するということは、自分をあらゆる面での失敗者であると感じることだけではなく、自分を、神に背き、神の権威をないがしろにし、神を無視し、神に敵対するようになり、神との関係を損なってしまっている者と理解することを意味するのである。」と言います。この理解なしに、福音を正しく知ることはありません。その絶望があって初めて救いの真のすばらしさを知るようになるのです。...

私たちが語るべきメッセージ

私たちの語るメッセージが聖書の真理を解き明かすものでなければ、そのメッセージには、本当の意味で人を変える力はありません。笑わせたり、泣かせたり、感情を昂らせ、感動を与えることはできるかもしれませんが、個人的な体験談や一般的なお話によって人が救われる訳でも、キリストに似た者に変えられる訳でもないのです。福音が「救いを得させる神の力」であり、神のみことばが「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」で、「いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」のです。だから私たちはこの「みことば」を宣べ伝えなければなりません。聖書が教えているこ...