クリスチャンの祈り(2)

何かに祈ったことがない人を探すことが困難なほど、日本人は祈ることをする国民です。それゆえに特に日本のクリスチャンには祈りに関する大きな問題があるように思います。確かに祈りの対象(誰に対して祈るのか)は変わったかも知れませんが、祈る態度や祈りに関する理解が、救われる前と全く同じでは、聖書的な祈りを捧げているとは言えないでしょう。...

クリスチャンの祈り(1)

神は私たちが祈っても祈らなくても、すべてのことを知っておられるので、私たちは自分の問題や願いを神に告げ知らせるために祈る必要はありません。祈りは神の知識の足りないところを補うためにあるのではありません。祈りは私たちが神をよりよく知るためにあるのです。神との祈りという交わりを通して、私たちは神の愛の深さを知ります。必要を訴えることを通して、神の計画の偉大さに気づき、困難の中でも神の素晴らしさを覚えることによって感謝することを学び、あらゆる必要をご自身の計画に沿って満たしてくださる神を心から礼拝するのです。...

人に喜ばれる福音という矛盾

聖書は私たちに罪があることを明確に示しています。そして、その罪を正しく理解することなしに、私たちは福音を理解することはないのです。J. I. パッカー師は「罪を自覚するということは、自分をあらゆる面での失敗者であると感じることだけではなく、自分を、神に背き、神の権威をないがしろにし、神を無視し、神に敵対するようになり、神との関係を損なってしまっている者と理解することを意味するのである。」と言います。この理解なしに、福音を正しく知ることはありません。その絶望があって初めて救いの真のすばらしさを知るようになるのです。...