説教者とみことばの学び

もし私たちが本当に「神のみことばは生きていて、力がある」と信じているならば、どうしてこの神のことばをより深く、より正しく伝えることに熱心になるのではなく、自分の考えや主張を訴えることに熱心になのでしょう?もし本当にみことばを宣べ伝えることによって人々を「キリストにある成人として立たせる」ことができると確信しているならば、どうして私たちは「知恵を尽くして」みことばの学びに取り組もうとしないのでしょう?...

熱意のない説教者の問題

パウロがキリストから託された働きは「キリストを宣べ伝える」ことでした(コロサイ1:28)。これはキリストが彼を救い、永遠の希望を与えてくださったからです。彼はこの働きをせずにはいられませんでした。なぜならこの働きに従事することは神の召しであり、彼の喜びであり、彼に与えられていた責任だったからです。そして「私たち」と記されているように、これは単にパウロだけに与えられていた働きではありませんでした。パウロと同じように主に仕えていこうとする者たちすべてが、「せずにはいられない」働きなのです。...

教会成長とは

教会は本当に教会が成長していくための働きをなしているのでしょうか?「成長」するための働きが単なる「大きくなる」「数が増える」ための働きであるとするならば、たとえ1000人集まる教会であったとしても、その教会は未熟な信徒が集まる未熟な教会でしかないのかもしれません。一部の優秀な人たちの働きによって多くの人が集まったとしても、次の世代のリーダーたちが育まれない、会員の入れ替わりの激しい、大きいけれども未熟な教会であるならば、主は本当にその教会を見て喜んでくださるのでしょうか?...

一致 [ピリピ2章考察] (6)

皆が自分のことだけを考えていては一致は生まれません。ですからパウロは、自分のことだけでなく他の人のことに目を向けるようにしなさいと命じるのです。これはイエスが山上の説教で教えた黄金律と同じことだと言うことができるでしょう。イエスは次のように言いました。 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)...