従わない弟子たち

五千人の給食の後、次のような言葉が聖書には記されています。「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、 この方こそ、 世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:14–15)...

説教者とみことばの学び

もし私たちが本当に「神のみことばは生きていて、力がある」と信じているならば、どうしてこの神のことばをより深く、より正しく伝えることに熱心になるのではなく、自分の考えや主張を訴えることに熱心になのでしょう?もし本当にみことばを宣べ伝えることによって人々を「キリストにある成人として立たせる」ことができると確信しているならば、どうして私たちは「知恵を尽くして」みことばの学びに取り組もうとしないのでしょう?...

熱意のない説教者の問題

パウロがキリストから託された働きは「キリストを宣べ伝える」ことでした(コロサイ1:28)。これはキリストが彼を救い、永遠の希望を与えてくださったからです。彼はこの働きをせずにはいられませんでした。なぜならこの働きに従事することは神の召しであり、彼の喜びであり、彼に与えられていた責任だったからです。そして「私たち」と記されているように、これは単にパウロだけに与えられていた働きではありませんでした。パウロと同じように主に仕えていこうとする者たちすべてが、「せずにはいられない」働きなのです。...

教会成長とは

教会は本当に教会が成長していくための働きをなしているのでしょうか?「成長」するための働きが単なる「大きくなる」「数が増える」ための働きであるとするならば、たとえ1000人集まる教会であったとしても、その教会は未熟な信徒が集まる未熟な教会でしかないのかもしれません。一部の優秀な人たちの働きによって多くの人が集まったとしても、次の世代のリーダーたちが育まれない、会員の入れ替わりの激しい、大きいけれども未熟な教会であるならば、主は本当にその教会を見て喜んでくださるのでしょうか?...