説教と聖書の権威・十全性

福音主義の教会は、聖書の無誤性、権威、十全性を信じるという教理声明を持っているはずです。しかし、本当にそれを心から確信し、真の神のことばとして聖書を語る教会は少ないというのが悲しい現実です。 聖書の著者たちが言わんとしていることを無視し、特定の聖句や一部の単語を文脈から抜き出し、本来その箇所が教えていることとは全く無関係なことを語る時、そのメッセージは神のみことばの解き明かしではなく、説教者の個人的な意見でしかありません。...

従わない弟子たち

五千人の給食の後、次のような言葉が聖書には記されています。「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、 この方こそ、 世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:14–15)...

説教者とみことばの学び

もし私たちが本当に「神のみことばは生きていて、力がある」と信じているならば、どうしてこの神のことばをより深く、より正しく伝えることに熱心になるのではなく、自分の考えや主張を訴えることに熱心になのでしょう?もし本当にみことばを宣べ伝えることによって人々を「キリストにある成人として立たせる」ことができると確信しているならば、どうして私たちは「知恵を尽くして」みことばの学びに取り組もうとしないのでしょう?...

熱意のない説教者の問題

パウロがキリストから託された働きは「キリストを宣べ伝える」ことでした(コロサイ1:28)。これはキリストが彼を救い、永遠の希望を与えてくださったからです。彼はこの働きをせずにはいられませんでした。なぜならこの働きに従事することは神の召しであり、彼の喜びであり、彼に与えられていた責任だったからです。そして「私たち」と記されているように、これは単にパウロだけに与えられていた働きではありませんでした。パウロと同じように主に仕えていこうとする者たちすべてが、「せずにはいられない」働きなのです。...