愛する者の姿

愛する者の姿

愛のある風景 聖書的な愛を実践することは、私たちにとって容易なことではありません。それは、私たちがこれまで経験してきた愛と、聖書が求めている愛との間にあまりにも大きな違いがあるからです。 日常の生活の中で私たちが見聞きしている愛は、私たちのうちから出てきたもので、利己的で、自己完結的な愛です。しかし聖書が実践しなさいと命じている愛は、私たちから出たものではなく、神から発したもので、聖霊の実として私たちの生涯に実るものなのです(ガラテヤ 5:22)。 聖書がはっきりと私たちに教えることは、救いのないところに神が喜ぶ...
クリスチャンと礼拝(5)—礼拝と教会—

クリスチャンと礼拝(5)—礼拝と教会—

ヨハネの福音書4章にでてくるイエスとサマリヤの女との対話の中で、イエスはこの女が持っていた礼拝観に異議を唱えました。そこで語られたイエスの言葉は、私たちの持っている礼拝観を吟味させるものです。私たちの多くは、礼拝というものが定められたときに、定められた場所で、ある特定の方法を持って行われるべきであるという考えを持っています。しかしイエスが答えの中に、私たちは「礼拝とは、特定の場所、時、形式に制限されるものではない」という真理を見出すことができます。ここで私たちは特に、礼拝の場所という点に焦点を当てて考えていきたいと思います。...
あなたはキリストのために死ねますか?

あなたはキリストのために死ねますか?

アメリカのテレビ局 NBC News が5月13日に一つの記事を掲載しました。この記事は現在頻繁にニュースで取り上げられている200人以上の女生徒を拉致したイスラム過激派グループ「ボコ・ハラム」 によって瀕死の重傷を負ったハビラ・アダムという男性に関するものでした。2012年11月、彼の村を襲撃したボコ・ハラムのメンバーは、イスラム教に改宗することを拒んだアダム氏を彼の妻と当時まだ5歳だった息子の目の前で撃ち、激しく出血していた彼を数回踏みつけて彼の家を後にしていったのです。...

説教と聖書の権威・十全性

福音主義の教会は、聖書の無誤性、権威、十全性を信じるという教理声明を持っているはずです。しかし、本当にそれを心から確信し、真の神のことばとして聖書を語る教会は少ないというのが悲しい現実です。 聖書の著者たちが言わんとしていることを無視し、特定の聖句や一部の単語を文脈から抜き出し、本来その箇所が教えていることとは全く無関係なことを語る時、そのメッセージは神のみことばの解き明かしではなく、説教者の個人的な意見でしかありません。...