子どもと救い(1)

子どもと救い(1)

幼い頃に教会学校などを通して信仰告白をした子どもたちが、全く教会にも来ることがなくなり、クリスチャンとしての歩みをすることなく生きている姿を見かけることがよくあります。幼い時の信仰はいったいどうなってしまったのかと疑問に抱くような行動を中学、高校を経て青年になっていく子どもたちの生涯に見る時に、子どもに対する働きに携わっている人々は、問題意識を持つはずです。ある親は罪を犯し続ける子どもたちに、幼い頃にした信仰告白を思い起こさせようとします。けれどもそのような告白をしたことさえ忘れてしまっている子どもたちがいることを私たちはどう理解すれ...
目に見える信仰の姿 (4)

目に見える信仰の姿 (4)

真の信仰は行いと共に働く信仰であることをアブラハムの例を通して告げたヤコブは、旧約聖書に登場するもう一人の人物の信仰から、真の信仰は口先だけのものではなく、具体的な行動によってしっかりと示されるものであることを教えます。ヤコブが伝えようとすることを正しく理解するために、詳しく2:24–26の言葉を考えてみましょう。...
目に見える信仰の姿 (3)

目に見える信仰の姿 (3)

役に立たない、むなしい信仰について厳しい指摘をしたヤコブは、21節からこれまでの非難をに基づいて、「行いによって見ることができる信仰」を具体的な例を挙げて説明していきます。時にここで述べられていることが、パウロが告げていることに矛盾するかのように捉えられることがありますが、それは大きな誤解です。詳細を見ていけばはっきりと分かることですが、パウロとヤコブは信仰を語るときに二つの異なった視点から話をしています。パウロは救われていない人が救いを得るに当たっての信仰について話をし、ヤコブは救われた者が持っているべき信仰に関して話をしているので...
目に見える信仰の姿 (2)

目に見える信仰の姿 (2)

「行いのないの伴わない信仰は役に立たない信仰である」とヤコブは告げました。これは単に「信じさえすれば、救われる」と考える者たちにとっては衝撃的な言葉かもしれません。確かに人は「信仰によってのみ」救いを得ることができます。永遠のいのちを得るに当たって、人の行いは何の益ももたらさない、必要のないものです。しかし、この「信仰」にも救いをもたらす「役に立つ信仰」と、救いをもたらさない「役に立たない信仰」があることをヤコブは明確に示しているのです。ヤコブの手紙2章は、この救いをもたらす本物の信仰と、救いをもたらさない信仰の違いについて言及します...
目に見える信仰の姿 (1)

目に見える信仰の姿 (1)

真の信仰とはどのようなものなのでしょう。私たちはそのことを正しく理解しておく必要があります。誰でも「自分は救われている」と思い込むことはできますが、どれだけ熱心にそのことを思い込んでいたとしても、真の信仰を持っていなければ、それはむなしい事でしかありません。聖書は救いに至る真の信仰を持つ時、人は「新しく生まれ」(ヨハネ3:3–15)、「新しく造られ」(2コリント5:17)、それは「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ2:10)ことを教えます。つまり、救いに至る真の信仰は、その姿を確かに実生活の中に現す信仰なの...