自存する神・依存する人 (1)

日本人にとって神とは、偉大な力を持ちながらも、私たちの実際の生活とは関係のないものとして考えられていることが多くあります。尊敬の念を抱くことはあっても、実際に神に頼ることはほとんどなく、この世界は神なしでも動いていくものだと考えている人がほとんどでしょう。神に頼る者は弱い者であり、本当にせっぱ詰まった状態の時だけ私たちは神に手を合わせ、自分の必要を満たしてくれるように願うのです。このような神は遠くから人間の世界を眺め、手を出したいと願っていてもなかなか行動を取ることができず、人の狡賢さに翻弄され、この世で起こる様々な出来事に対してどう...

福音が良い知らせである理由

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」( Ⅰペテロ3:18)...

神の偉大さと私たちの価値

「神は私たちを必要としている」そんな風に考えたことはあるでしょうか?「神が人を創造した(または救う)のは、私たちとの交わりを求めていたからだ」などと私たちが考えたとするならば、この「神」は聖書が教えている神ではないことに私たちは気付かなければなりません。神は完全な方なので不足するところが一切ありません。あらゆる点において、神は必要を持たない方なのです。それゆえに、私たちが神の必要を満たすことも、神を助けることもあり得ないのです。...

合法化された罪

もし聖書が神のことばであり、絶対的な真理を提示する無誤無謬の書であると確信しているならば、私たちは聖書が教えていることに妥協をすることはできないはずです。私たちが生きるこの社会において聖書のことばは様々な形で否定されていますが、その中でも聖書が「罪」だと定める事柄が、罪として理解されなくなっていることを危惧しています。...

人に喜ばれる福音という矛盾

聖書は私たちに罪があることを明確に示しています。そして、その罪を正しく理解することなしに、私たちは福音を理解することはないのです。J. I. パッカー師は「罪を自覚するということは、自分をあらゆる面での失敗者であると感じることだけではなく、自分を、神に背き、神の権威をないがしろにし、神を無視し、神に敵対するようになり、神との関係を損なってしまっている者と理解することを意味するのである。」と言います。この理解なしに、福音を正しく知ることはありません。その絶望があって初めて救いの真のすばらしさを知るようになるのです。...