「神は私たちを必要としている」そんな風に考えたことはあるでしょうか?「神が人を創造した(または救う)のは、私たちとの交わりを求めていたからだ」などと私たちが考えたとするならば、この「神」は聖書が教えている神ではないことに私たちは気付かなければなりません。神は完全な方なので不足するところが一切ありません。あらゆる点において、神は必要を持たない方なのです。それゆえに、私たちが神の必要を満たすことも、神を助けることもあり得ないのです。
私たちは様々な場面でまるで、自分が神の助けをしているかのように振る舞うことがあります。それは「自分が『高価で貴い』から神が自分のことを救いたがっている」と考えることから始まり、「自分がいなければ神の働きが全うされることがない」という高慢な態度へと続いていきます。しかし、生まれながらの私たちは本当に高価で貴いのでしょうか?本当に私たちがいなければ神の御業が頓挫してしまうのでしょうか?
「御怒りを受けるべき子」であった私たちの貴さを惜しんで神が私たちを救ったとするならば、救いは私たちの価値に依存します。すばらしいのは「あわれみ豊かな神の愛」ではなく、神さえも惜しいと思うほどの「私たちの価値」になってしまいます。それは聖書が教える人の姿とは異なるものであり、聖書が教える救いとは異質のものと言えるでしょう。
また神が全能な方であるとするならば、神はご自身の計画を全うするにあたって、私たちの助けを借りる必要は一切ないはずです。確かに神は私たちを用いて働きを全うしようと計画されましたが、それはご自身の力や知恵が足りなくて、私たちの助けが必要だからそう計画されたのではないのです。神は望むならば、ロバの口を開くことができます。必要ならば石が叫んで神の栄光を讃えるのです。
もし私たちが正しく神の偉大さを理解するならば、救われる価値のない私たちを救ってくださった方に感謝をせずにはいられないでしょう。もし私たちが神の力を正しく理解するならば、役に立たない私たちを選んで、主のために働きをすることができる特権を与えてくださっていることに感謝をせずにはいられないでしょう。もし正しく神を知るならば、私たちは救いの上に胡座をかき、神に仕えることに関してつぶやくことはできなくなるでしょう。問題は私たちが「知っている」と言う神を、本当にどれだけ正しく知っているかということです。生かされていることを感謝できず、救われていることを感謝せず、神に仕えることを感謝してもしきれないほどの特権であると捉えることができない人は、今一度自分が神を知っているかどうかを吟味する必要があるでしょう。神のことを知れば知るほど、自分の罪深さ、高慢さ、感謝の足りなさを思い知らされます。救われていること、主に仕えることができることで高慢になるのではなく、ますますへりくだり、主への尽きることのない感謝を表して生きることができれば。それほどすばらしいことはないでしょう。