一致をもたらすためには、単に自己中心と虚栄を避けるだけでは十分ではありません。このようなことが起こらないように、私たちは一致を妨げる原因を取り除き、一致をもたらす態度を身につけなければなりません。私たちの内にある毒を取り除き、健全にキリストのからだを建て上げていくことができるようになる必要があります。ピリピ2:3の後半でパウロは自己中心とうぬぼれという二つの一致を乱す毒素に対して解毒剤を調合します。それは「謙遜」です。ここでパウロは一致をするために私たちがどのように考えるべきなのかを教えているのです。
一致を乱す毒素である自己中心と虚栄に基づいて生きるのではなく、へりくだりの思いのうちにお互いを自分自身よりも遙かに優れた者として考えることをパウロは求めています。「へりくだって」と訳されている単語は、現存する新約聖書以前の書物には登場しない単語です。この言葉も合成語で、「低い」という言葉と「心/思い」という言葉から形成されています。「低い」と訳される「タペイノス」という形容詞は、ギリシャ語圏の中では奴隷を指す言葉として用いられていました。価値のない、ふさわしくないものを表す形容詞だったのです。
当時の社会において、「へりくだり」は美徳ではありませんでした。「へりくだり」は弱さや無力さを示すものであり、誰かの支配下に置かれていることを意味する概念であったため、むしろ、忌むべきものとして捉えられていたのです。しかし、パウロはまさにこのへりくだりこそが、クリスチャンに必要なことであると訴えているのです。
謙遜は、神が人に求める姿です。ペテロはこのことを次のように教えています。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」( Ⅰペテロ5:5-6)
イエスは「わたしは心優しく、へりくだっている」(マタイ11:29)と言い、主のようにへりくだっている者こそが御国を受け継ぐことを詩篇の著者は教えています(詩篇 37:11)。このような考え方は、パウロの時代においても、そして現代においても、時代の流れに逆行する考え方です。しかし、聖書は私たちに誇り高ぶるのではなく、このような「低い」、「価値のない」存在であることを正しく認識するように求めているのです。
しかし、パウロが求めていることは、単に私たちが謙遜の思いを持つことではなく、へりくだりのうちに、お互いを自分自身よりも遙かに優れた者として考えるということでした。つまり、謙遜するだけではなく、謙譲することを求めているのです。自己卑下することは、それほど困難なことではありません。事実、多くの人々がこのことを行っています。しかし、自己卑下する人たちが、自分よりも相手の方が優れていると認めるかと問えば、答えは違ってくるでしょう。パウロはここで、経理的な言葉を使っています。「思いなさい」と訳されている分詞は、「数える」、「計算する」、「判断する」という意味の動詞です。つまり、何となくそう思うのではなく、じっくりと真理に基づいて考え抜いた結果、まさにその通りだと思うという意味があるのです。
しかも、パウロは相手のことを「卓越した」、「超越した」者であると考えなさいと言います。この「すぐれた」という言葉をパウロがどのような意味で用いているのかを知るために、この手紙の中でパウロが同じ言葉を使っているところを見てみましょう。最初は「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、一切のことを損と思っています。」(ピリピ3:8a)です。そしてもう一つは、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)です。どちらもどれくらい優れているかは一目瞭然でしょう。キリストを知ることは、ほかのあらゆる事柄と比較することができないほどのものであり、キリストを知ること以外のすべてのことは、「ちりあくた」と思えるほどだとパウロは言います。また神の平安は、私たち人間が理解することができる、あらゆる思考を超越したものであることをパウロは教えています。私たちが平安をもてないと思うような状況であったとしても、神は私たちの考えを遙かに超えたすばらしい平安で満たすことができるのだと言うのです。
それと同じように、私たちは自分よりも遙かに兄弟姉妹が優れた者であると考えるべきであることをパウロは教えています。いったいどのようにして、このような思いをお互いの間で持つことができのでしょう。どうしたら、相手が自分よりも遙かに優れた者であると思ってへりくだりのうちに、高慢と自己中心から解放された一致の生涯を持つことができるのでしょう。私たちは人と自分を比較し、いかに自分の方が優れているのかを見いだす習慣を持っています。「あの人よりも、私の方が・・・」と常に考えているのです。そのような人物はパウロの命令を実践することはできません。唯一、自分の罪をしっかりと見つめることができる人物だけが、相手を自分よりも優れた者であると考えることができるのです。
パウロは自分のことを「使徒の中ではもっとも小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者」(Ⅰコリント15:9a)、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8a)、そして「私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)と考えていました。なぜなら、彼は自分の罪深さを誰よりもよく知っていたからです。自分の心がいかに汚れているのかをよく知っているのがクリスチャンであり、罪深さに満ちあふれた心を持っていることをよく認識しているからこそ、高ぶる心を持たない者になるのです。他の人と比較して自分の優劣を判断するのではなく、自分の罪深さを知るがゆえに誇ることのできないことを正しく認識するのです。
自分の犯す罪を、確かに罪深いものであると正しく認識し、その罪を悔い改め、主に告白することによって赦されている者は、パウロが求めることを実践することができるようになるでしょう。逆に、「私はそれほど悪くない」または「私は十分できている」と考える人は、「互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ことはできないのです。