教会が健全であるためには正しい聖書の説き明かしが必要です。神がどのような方で、何を望まれ、何を要求されているかを知るために、神は私たちに聖書を与えてくださいました。究極の著者である神は、人間の著者たちを通してご自分の意図したことを聖書を通して明示してくださっているので、聖書は「教えと戒めと訓戒と義の訓練とのために有益」なのです(2テモテ3:16)。教会が成長し、キリストの似姿へと成長していくためにはこの聖書の真理を正しく知らなければなりません。そして正しく知るためには、正しく説き明かされる必要があるのです。
では正しい説き明かしとはどのようなものなのでしょう。良い説き明かしとはどのような説教なのでしょう。まず最初にはっきりさせておかなければならないことは、ここで問題としている「良い」とは「聴衆が語られた説教についてどのように感じたか」によって判断されるものではないということです。確かに「みことばの説き明かし」はそこに集っている聴衆に向けて語られるものですが、たとえもし集まっているすべての人が「素晴らしいメッセージだった」と感動したとしても、天でそのメッセージを聞いている主が首を横に振っているならば、そのメッセージは聖書を正しく説き明かすメッセージではありません。もし著者が語られたメッセージを聞いて「アーメン」と言って同意することができなければ、もし著者が「私が言っていることとは違う!」と嘆いているならば、それは正しい聖書の説き明かしではないのです。
真剣な思いで働きをする説教者ならば、誰一人として「主が語ることと違うことを話そう」と考え、意図的にメッセージを曲げることはしないでしょう。しかし残念ながら近年のキリスト教会では、著者が意図したことを無視するがゆえに神が伝えていることを伝えないメッセージが多く見られます。聖書に書かれていることを伝えるのではなく、自分の言いたいことを聖書を使って伝えるとき、説教者は神の言葉をその通り伝える「通り良き管」ではなく、自分の思いを神の言葉を使って語る「通り悪しき管」になるのです。
ある集まりで「話すべき事が見つからなくて説教の準備がつらい」と告白した牧師の言葉に、多くの牧師たちが同意しているのを目の当たりにしたことがあります。確かに説教の準備は多くの労力と時間が必要な大変な作業ですが、「話すべき事が見つからない」というのは一つの致命的な問題を露呈しています。聖書は神の知恵に溢れた真理の書なので、そこに書かれていることを正しく理解するならば「話すべき事がありすぎて困る」ことはあっても「話すべき事が見つからない」というのはあり得ないことです。ではなぜ「見つからない」のでしょう。端的に言えば、それは聖書が教えていることを話そうとしているのではなく、自分が話したいことを語ろうとしているからです。つまり、「話すべき事が見つからない」のではなく「話したい事が見つからない」または「話したい事をこの箇所から話せない」だけなのです。
いつ聞いてもメッセージの内容が同じように思える説教者たちがいます。どの箇所からのメッセージでも全く同じ結論になる説教者たちがいます。聖書を一度も開くことなく、聖書が言っていることとは全く関係ない説教をする人たちがいます。聖書を読みながらメッセージを聞いていると「本当にそんなことを聖書は言っているのだろうか」と首をかしげたくなることを語る説教者たちがいます。確かに彼らは「主が私を通して今日皆さんに語ってくださるように」と祈るでしょう。ひょっとすると彼らは「主が今日のメッセージを与えてくださった」と言うかもしれません。しかし、そのようなメッセージは「主の御告げ」と呼べるものではありません。なぜなら今、主はこの時代に生きる私たちに対する啓示を新約聖書の完成をもって完全に示し、聖書に記されている真理を通して私たちを教え、戒め、矯正し、訓練してくださるからです。この真理は説教者や読者によって勝手に意味を作り替えることができるものではなく、主が用いた著者たちの意図に基づいて理解されなければならないものです。著者が意図していないことは決して神の意図していることではないのです。
神が喜ぶ聖書の説き明かしとは、神がオリジナルの著者を通して語られた意図を正しく人々に説き明かすものです。このような説き明かしをするためには真剣な学びが必要になります。歴史、地理、文化などの背景をしっかりと調べ、使われている単語の持つ意味や文法的な特徴を正しく理解し、何よりも文脈に基づいて著者が意図していることを理解しなければなりません。だから土曜の夜に大慌てで作った説教は、みことばの真理の素晴らしさを十分に伝える事ができない説教なのです。
説教者の務めは「真理のみことばをまっすぐに説き明かす」(2テモテ2:15)ことです。神から与えられた真理の管理者として忠実にその働きを全うすることです(1コリント4:1–2)。「宣べ伝える」と訳される動詞や時に「宣教者」訳される名詞は「布告官」または「伝令官」とその働きを指して使われる言葉です。この働きに従事する者に求められることは、忠実に、大胆に、はっきりと王が語ったことをその通りに伝える事だけです。伝令官は王のメッセージを読んだ感想を伝えるべきでも、王のメッセージによって得た経験を語るべきでも、王のメッセージ以外のメッセージを語るべきでもありません。語るメッセージが聴衆に受け入れられるかどうかは伝令官が気にかけるべき事ではなく、ましてやそのメッセージを聴衆に受け入れられるように編集するなどもってのほかです。
たとえもし教会に集うすべての人が「今日のメッセージは素晴らしかった!」と称賛したとしても、天で主が「それは私が語ったことではない!」と言っていたら、それは良い、正しい聖書の説き明かしではありません。すべての説教者はこのことを真剣に考えなければなりません。すべての信徒は語られる教えに注意深く耳を傾け、ベレヤの信徒たちがしたように「非常に熱心にみことばを聞き、果たしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ」なければなりません(使徒17:11)。なぜなら、正しく聖書が説き明かされていない教会は、決して健康な教会になり得ることがないからです。