定期的な健康診断をすることによって身体の異常を早期に発見することが大切であるように、教会が霊的な健康を維持しているかどうかを定期的に確認することは大切なことです。健康を害しているという自覚症状がなくても病が進行することがあるように、「私の教会は大丈夫」と思っていてもいつの間にか本来あるべき健全な状態から離れてしまうことが実際に多々あるのです。それゆえに、教会が霊的に健全な状態にあることを確認するための検査が必要です。この検査の基準は「自分の教会は○○だと思う」というような主観的なものではなく、聖書が教える「健全な教会」の姿に基づく客観的なものでなければなりません。つまり「私はこの教会が良い教会だと思う」と考える人がどれだけいるかではなく、主が教会をご覧になったときに「この教会は良い教会だ」と言われるかどうかが問題なのです。

聖書は教会について多くのことを教えています。その教えはすべて私たちが教会を精査するために用いるべき客観的な基準です。エペソ人への手紙は教会のあるべき姿を神学的に明瞭に示し、コリント人への手紙第一は教会の間違った姿を指摘し、悔い改めを促します。牧会書簡では教会を導く者たちの姿とその働きが教えられ、黙示録ではキリストご自身の教会に対する評価が記されています。これらの箇所は神がどのような教会を「良い教会」と評価されているのかを明らかにしてくれるのです。たくさん示されている基準をまとめることは簡単なことではありませんし、様々なまとめ方があるでしょうが、健全な教会の特徴を考えるに当たって、まず根幹的な三つの特徴を挙げることができるでしょう。それは (1) 岩の上に建っているか (2) 愛によって繋がっているか (3) みことばによって建て上げられているかということです。

岩の上に建っているか

聖書が初めて教会に言及する箇所はマタイ16章です。そこでイエスは次のように告げました。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18c)

この箇所は「わたしをだれだと言いますか」(16:15)いう主の質問に対してペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」(16:16)と答えたことを受けて語られたものです。「岩」と訳されている言葉は建物の土台となるような大きな岩を意味する言葉で、明らかにペテロのことを指してはいません。そして「この」という言葉は、この文脈の中に教会の土台となる「岩」がすでに登場したことを示しています。では教会がその上に建てられる「岩」とはなんでしょう?それは16節に出てくるペテロのキリストに関する告白です。キリストが建てると約束したキリストの教会は、イエスこそが「生ける神の御子キリスト」であるという真理の上に建っているのです。

たとえ誰がどれだけ「ここは教会だ!」と叫んでも、もしイエスこそが「生ける神の御子キリスト」であることを正しく理解し信じていなければ、それは教会ではありません。主が誰であるのかを正しく信じていなければ、福音は成立しません。イエスが誰であるのかを正しく信じていないならば、そこには教会は存在しないのです。これは単にイエスが「生ける神の御子キリスト」であることを知っているということではありません。信仰告白や教理声明にそう書いてあるということでもありません。イエスが約束の救い主であり、神であることを正しく認めることによって生み出される当然の結果が伴う確信なのです。

この告白を持たない教会はキリストが建てる教会ではありません。この告白に生きない教会はキリストが建てる教会ではありません。それゆえに聖書が示す健全な教会には決してなり得ないのです。

愛によって繋がっているか

キリストに関する正しい告白は教会が教会であるために欠かすことのできない特徴ですが、二番目に挙げる「愛によって繋がっている」という特徴も同じように教会が教会であるために欠かすことのできない特徴です。イエスは弟子たちに向かって次のように告げられました。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛しなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ14:34–35)

イエスはこの箇所で非常に大切なことを教えています。それはキリストが弟子たちを愛したのと同じように「互いに愛する」という命令を実践するときに、「すべての人」の前で私たちがキリストの弟子である(つまりクリスチャンであること)を認識されるのだということです。そして、このクリスチャンの間に見られるべき愛は、キリストに対する愛に基づいていることを私たちは忘れてはいけません。なぜならキリストが愛したように人を愛するためには、キリストの愛を知り、キリストを愛する者に変えられなければならないからです(1ヨハネ4:20)。

キリストご自身がエペソの教会を吟味されたとき、主は「あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)と言ってこの教会を非難されました。創立から約40年経っていたエペソの教会は、キリストを愛する愛から離れ、それゆえに互いにあるべき愛からも離れてしまっていたのです。どれだけ教理がしっかりしていたとしても、特定の良い行いがあったとしても、もし教会の中に「キリストを愛する愛」と「キリスト者を愛する愛」が欠落しているならば、その教会は健全な教会ではないのです。

教会の中でいがみ合いや争いがあるとき、そこに健全な教会はありません。特定の人だけで仲良くしていたとしても、教会全体が愛によって特徴付けられていなければ、そこにはキリストの弟子の姿を見ることはできません。こうした愛の欠如は一つの厳しい現実を教会に突きつけていることに私たちは気づくべきでしょう。その現実とは「互いに対する愛の欠如はキリストに対する愛の欠如の反映である」ということです。クリスチャンとはキリストの弟子であり(使徒11:26)、キリストの弟子が集まる所には愛が見られます(ヨハネ14:34–35)。ですから愛の欠落した教会も健全な教会にはなり得ないのです。

みことばによって建て上げられているか

三番目の根幹的な特徴は「みことばによって建て上げられているか」ということです。パウロはローマ人への手紙の中で次のように告げました。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

ペテロも同様に私たちの新生がみことばによるものであることを次のように明言しています。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(1ペテロ1:23)

また、ペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(1ペテロ2:2)と言って、救いだけでなくクリスチャンとしての成長もみことばによってもたらされることを教えています。なぜならキリストが弟子たちのために祈った言葉に示されているように、人を聖め別つのは真理である神のみことばによってであるからです(ヨハネ17:17)。詩篇1篇や詩篇119篇に見ることができるように、聖書は一貫して神のみことばによって人は救われ、主に喜ばれる者へと成長していくことを教えています。それゆえパウロは自らの生涯の終わりに、働きのバトンを託す信仰の子であるテモテに対して「みことばを宣べ伝えなさい」(2テモテ4:2)と命じたのです。テモテは聖書が「神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とに有益」(2テモテ3:16)であることを理解していたので、パウロたちから教えられた真理を「他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(2テモテ2:2)という命令を全うしようと生きたのです。

もし教会が「みことばを宣べ伝えなさい」という命令を全うしていないならば、その教会は神のことばに耳を傾けない不健全な教会になっていきます。パウロがこの命令をテモテにしたのは「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分のつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれていく」(2テモテ4:3–4)ことを知っていたからでした。みことばを正しく説き明かすのではなく、反感を持たれることのないように、人々を傷つけないように、聴衆の聴きたいことを聖書を使って語るならば、それはまさにパウロが警告したことが現実のものになっていることであり、「みことばを宣べ伝える」ことではないのです。

聖書は説教者のことを「伝令官」と呼びます。「神の奥義の管理者」であり、「管理者には、忠実であることが要求され」ています(1コリント4:1–2)。つまり、説教者は神が語ったことをその通り伝える責任が与えられているのです。たとえ聖書を用いていたとしても、著者が意図していることを無視して自分の思いや考えを語るならば、それは「みことばを宣べ伝える」ことではありません。エズラが捕囚から戻ってきた民にみことばを解き明かしたように(エズラ8:1–12)、主がエマオ途上の二人の弟子たちに「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(ルカ24:27)ように、パウロがエペソで3年間熱心に「神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせ」たように(使徒20:27)、教会は神が語ったことを正しく大胆に、「寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧め」なければならないのです(2テモテ4:2)。

パウロはエペソ教会の長老たちに対してこのように告げました。

「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)

たとえキリストが誰なのかという正しい岩の上に建っていたとしても、たとえ愛によって繋がっていたとしても、みことばに対する溢れんばかりの情熱がなければ、みことばによって「心がうちにも燃える」ことがなければ(ルカ24:32)、主に喜ばれる者となることができるように神のことばに熱心に耳を傾けることが何よりも優先されていないならば、その教会は健全な教会ではありません。いや、もっと正確に言うならば、もし聖書を正しく説き明かさなければ、キリストが誰なのかということも、キリストを愛すること、またキリストが愛したように互いを愛するという命令を実践することも決して正しく行うことはできません。なぜならば聖書だけがそのことを教えているからです。ですから、みことばによって建て上げられていない教会は決して健全な教会になり得ません。私たちはこのことを決して忘れてはならないのです。

これら三つの特徴さえあれば教会が健全だというわけではありません。しかし、これらの特徴を持っていなければ、間違いなくその教会は主の目には健全な教会だと映ることはないでしょう。私たちの教会は健全な教会でしょうか?私たちの教会は主が喜ぶ教会へと成長しているでしょうか?いつの間にか本来あるべき姿から離れてしまい、建つべき土台からずれ、持つべき愛を離れ、聞くべき真理に耳を閉ざしてしまっていることがないように、私たちは自分の教会をしっかりと吟味する必要があるのです。