本来ならば起こり得ないことが起こるとき、そこには間違いなく驚きがあります。愛する誰かが地上での生命の終焉を迎えるとき、私たちは皆、悲しみを経験します。しかし、残念ながら教会が死を迎えるとき、そこには驚きも悲しみもない場合が多々あります。なぜなら教会が死を迎えるとき、そこには真に教会を気遣う人が残っていないからです。事実教会の死は教会が解散するときではなく、最後の信徒が教会を去るときです。確かに教会の死は教会が閉鎖の決断をしたときに起こるものかもしれませんが、たとえ教会が閉鎖しなくとも、いや、ときに教会にまだ多くの人が集っていたとしても、そこに集まっている人たちが本当の意味で神を求める人ではないために、実際にはすでに死を迎えている教会もあるのです。

教会の死は決して一つの形ではありません。人がいなくなって死ぬ場合もあれば、人が集まっていても分裂したり、消滅したりする教会もあります。人間的に見れば活気にあふれている教会であっても、そこに集まる人の中に霊的ないのちを見ることができない、ゾンビのような教会も存在します。ただ、どのような死を迎えたとしても共通することは、主がその教会を見て喜ばれることはないということです。これはこうした教会が「わたしが建てる」と言われた方の設計図を無視し、聖書の教えに沿って教会を建てあげようとしないことによって起こることです。そのような教会であるがゆえに、そこには真の信徒が集まることがないのです。

主によって救われた真のキリスト者は、神を喜ばせることをなそうとしない教会に留まることができません。みことばの真理を蔑み、利己的な解釈に基づいて非聖書的な教えを語り、人々が聞きたいことばかりを伝える教会は、真理を愛し、みことばの乳を慕い求める真のキリスト者にとって魅力のない場所です。こうして霊的ないのちを持つ者たちが教会にいなくなるときに、教会は死を迎えるのです。

小さな教会が「死にそうな教会だ」ということではありません。小さくとも主への愛と感謝と喜びに満ちて、霊的ないのちを目一杯生きている教会は決して「瀕死の状態」ではありません。サイズが問題なのではないのです。主にあるいのちがしっかりと教会を構成する一人ひとりの生涯において生きられているかが問題なのです。

「弟子を作る」という任務を忘れ、「聖さを保つ」という特徴を失い、「ふさわしいリーダーを選ぶ」ことを怠る教会は、教会の縮小という現実的な問題の中で安易な解決策を講じます。みことばの真理に基づいて正しく教会を建てあげるのではなく、抱えている問題の解決のみを求めて聖書の教えを軽んじるならば、そこには正しい解決は見いだされません。このような安易な方法は教会の中に怒りをもたらし、「互いに愛し合う」という特徴が見られなくなっていきます。世が教会を見て、キリストの弟子がそこにいることが分からなくなるのです。このような状態に留まり続ける教会にはやがて失望の嵐が吹き荒れます。失望は教会に対するものだけでなく、神ご自身に対するものでもあります。こうして教会は神に対する期待と希望を失い、神の方法に解決があることを疑い、この世との妥協を選択していくのです。死にゆく教会がすべてこの過程を辿るわけではありません。ただこうしたことが教会を死へと追いやっていくことは間違いありません。

「キリスト教会」という名が付いてさえいれば「真の教会」であるわけではありません。イスラエルの民に対して主が語られたように、たとえ「神の民」という名の下に集まっていたとしても、そこに主への心からの献身がなければ主は彼らの礼拝を忌み嫌います。イザヤ1:11–13で主はイザヤを通して次のように告げます。

「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙--それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日--会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。」

マラキ書には次のような主の言葉が記されています。

子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。(マラキ1:6)

この糾弾の言葉は当時の祭司たちのあまりにも嘆かわしい質問の言葉で答えられています。彼らは「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」と主に向かって告げたのです。このマラキ書でのやりとりが現代の教会の現状と重なる部分があるように思えてしまうのは決して気のせいではないでしょう。

死にゆく教会には共通した特徴が存在します。それはイスラエルの暗黒時代にも見られた、神の民が主から離れていくときに見ることができる特徴です。この特徴とは次の言葉によって明瞭に現されます。

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師17:6)

みことばの真理を離れ、神の設計図を無視し、自分たちの目に正しいと見えることを行うとき、教会は死への道をまっしぐらに進んでいます。私たちはこのような教会にならないように、みことばを正しく理解し、教え、生きる牧会者を求めなければいけません。一人ひとりの信徒がみことばの理解を深め、ベレヤの信徒のように「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりがどうかと毎日聖書を調べ(る)」者になっていかなければなりません(使徒17:11)。たとえ死が眼前に迫っているような教会だとしても、いのちを与えることができる主は、その教会をよみがえらせることができるお方です。しかし、そこには並々ならぬ献身と努力が必要であることを忘れてはなりません。

日本の教会が死にゆく教会とならないことをなによりも主に願い求めています。あわれみ深い主が日本の教会を顧みてくださり、すべての教会が聖書の真理に堅く立ち、与えられている責任を全うし、妥協することなく忍耐を持って、喜びと感謝にあふれて主を讃えながら「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4:12)ことを心から祈っています。