妥協

キリストはラオデキヤにあった教会に向かって次のように語られました。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15–16)。死への道を一歩一歩進んで行くとき、教会は主からのこの宣告を実感します。本来ならば主に仕えたいと心から願う者たちで溢れているはずの教会は、傍観者たちが集う活気のない場所になります。たとえ活気があったとしても、それは霊的ないのちによってもたらされる自己犠牲的な主への献身によって特徴付けられる活気ではなく、利己的な願望を満たすための活気でしかありません。自分たちは「熱い」と思っていても、主は彼らを「熱くもなく冷たくもない」と見ておられるのです。

教会が衰退して行くとき、そこには二通りの衰退を考えることができます。一つは目に見える具体的な形の衰退で、もう一つは目に見えない霊的な衰退です。教会に集う人数が減少し、献金が集まらなくなり、働きが縮小するというのは目に見える衰退です。同時にどれだけ財政的にも働きの規模においても充実しているように見えたとしても、教会としての霊的な特徴を失い、主の建てようとする教会の姿から離れて行くならば、その教会は霊的に衰退する教会です。どちらの場合も、教会としての死へと向かっているのです。

五番目の過程は、どちらケースにおいても失望のゆえに変わることを諦め、今おかれている状況を甘受する時に起こる妥協です。「もうしょうがない」という言葉が教会の標語となります。「若い人がいないから…」「牧師がいないから…」「こんな世の中だから…」と具体的な衰退を経験する教会は言い、「人が集まっているんだから…」「みんな満足しているのだから…」と霊的な衰退をしている教会は口にします。しかし、これらの言葉はどちらにしても現在の状況を正しく解決することを諦めた人たちの言葉です。

教会の死が眼前に迫るとき、教会(もしくはそこに集う霊的な人々)はあらゆる手段を講じて教会を立て直そうと努めます。教会成長の本を手当たり次第に読み漁り、あらゆる牧師に相談し、あらゆる再生方法を教会に取り入れようとします。しかし、残念ながらこれらの努力は、みことばの真理に対する確信によってもたらされたものではなく、どうしようもない状況に対する苦し紛れの行動でしかありません。いくら重い腰を上げたとしても、正しい悔い改めと確かな従順がなければ、どれだけ努力をしても真の報いはないのです。そしてこのような努力が身を結ばないことの虚しさに、ついには「しょうがない」と思い込むのです。

たとえそれがどのような問題であったとしても、抱える問題が神にも解決できないことであると思う時に、人は絶望という暗闇に歩を進めます。そして正しい解決を見出すことが不可能だと考え、問題があることに妥協するようになるのです。教会が主の前に正しくあることを諦め、「冷たくもなく熱くもない」状態に妥協する時、教会は死期を迎えたことを悟らなければなりません。

教会がキリストの教会であるためには、そこに集う者たちがみな「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4:13)ことに努め続けていなければなりません。そこには妥協という言葉は存在しません。絶望が心を支配することは決してありません。しかし、死にゆく教会は妥協と絶望の中で、最後の時を迎えることになるのです。