第四段階:失望

これまで見てきたように、死にゆく教会は否認反動怒りという過程を辿っていきます。これらの過程に共通することはみことばの教えを無視して、教会のあるべき姿を失っていくということです。たとえどれだけ標語として「伝道をすること」や「聖い生き方をすること」を掲げていたとしても、みことばの正しい理解なしに、福音宣教に励むことも、主に似た者に変わっていくこともできません。一人一人のクリスチャンとしての土台が、真理に対する確信の上に築かれていないために、聖書の基準に沿った、霊的に成熟した牧会者として働きをなすことができる人物が教会の中に現れてきません。その結果「非難されることのある者」が牧会の任に就き、みことばの知恵と力によって主の求める方法で牧会をする代わりに、安易な方法で人を集めることに躍起になってしまうのです。
教会としての特色を失っていくとき、教会は「聖さ」と「愛」を失っていきます。「聖さ」は道徳的な純潔以上に、神の民として選び分かたれた民、この世とは違う生涯を歩む者の集まりという特色です[1]。そしてこの「聖さ」を失うならば、必然的に教会に「愛」が見られなくなっていくでしょう。なぜなら、真のクリスチャンが持つ愛は神の民として歩む者だけが持っているものだからです[2]。「聖さ」と「愛」の欠けた教会は、批判と非難に満ちたギスギスした人間関係と、身勝手な願望によって特徴付けられていく教会となっていくのです。
あるべき特色が失われた教会は、伝統にすがる冷めた教会になったり、利己的な願望を満たすための集まりになったり、非聖書的な目的を持つ教会になったりしていきます。そして「教会を再生させよう」と教会が努めれば努めるほど、進もうとする方向が間違っているために、より状況を悪化させてしまいます。こうしてますます聖さを失い、愛を失っていく教会は、やがて怒りに特徴付けられる教会になっていくのです。
悲しいことに、この怒りは人に向けられるだけでなく神にも向けられていきます。自分たちが一生懸命教会に仕えているのに、それに報いてくれない神に失望し、望んでいる変化が起こらないことに苛立ちます。神の愛を疑い、神が良い方であることを否定するようになるので、主に対する信頼と希望が教会から消えていきます。信頼を失うと神の知恵に頼ることをしなくなります。これまでも聖書に基づいた正しい吟味をしてこなかったのですが、どれだけ努力しても「祝福」を与えてくださらない神に失望していくと、神のことばを「ばからしい」とさえ思うようになるのです。唯一の解決策である神の真理から目をそらすとき、そこに生まれてくるのは失望です。「もうだめだ」と感じ、教会の死を黙って見ていくことしかできないと感じていくのです。
失望した教会は悲しい教会です。クリスチャンの特徴である「喜び」を教会で見ることができないことほど悲しいことはありません。こうしていつまで残るはずの希望が消えるとき、いよいよ教会は末期を迎えるのです。
 


[1] 詩篇1篇や1ペテロ2:9などはまさにこうした聖別された神の民のことに言及しています。「世の光」(マタイ5:14)である信徒が集まる教会は「この世と調子を合わせない」(ローマ12:2)教会であり、「御霊に満たされ」(エペソ5:18)「御霊によって歩む」(ガラテヤ5:16)教会です。
[2] 神のうちにいるクリスチャンは、みことばを守り、キリストが歩まれたように歩もうとします(1ヨハネ2:5–6)。このような人物こそ「神の愛が全うされている」(1ヨハネ2:5)と言われる人物です。その人は「神にならう者」として生きようとする者であり、「愛のうちに歩む」者になっていくのです(エペソ5:1–2)。