第三段階: 怒り

痛み止めをどれだけ飲んだとしても痛みの原因となる疾患を治療しなければ体調が改善しないのと同じように、間違った方法で問題の解決に務めたとしても、そこには本当の意味での解決を見ることはできません。みことばが提示する本来あるべき教会の姿から離れてしまった教会が、悪い流れを変えようと安易な手段に手を伸ばすとき、そこにはさらなる混乱が待っています。うまくいかないことへの苛立ちは、教会が衰退していくことへの落胆と不安から、怒りへと人々の感情を動かしていくのです。
これまでしてきたことにさらに力を入れたり、新しいプログラムを導入したり、新しい牧師を招聘したりすることで、なんとか負の連鎖を止めようとしてきた教会は、やがてこうした「秘策」に教会を生き返らせる力がないことに気づいていきます。ひょとすると一時的に活気を取り戻すかもしれませんが、衰退の原因である教会の霊的状態を正しく解決しようとしない教会は、神の素晴らしさが見て取れる、愛と聖さと真理にあふれる教会になることはありません。多くの人が集まる活気あふれる場所になるかもしれませんが、それは世にある様々なクラブや集会と違いがありません。「雰囲気がいいから・・・」「音楽が素晴らしいから・・・」「楽しいから・・・」「安らぐから・・・」「自分の居場所があるから・・・」などといった理由で人が集まったとしても、そこで行われている行為は神が求める礼拝ではありません。ちょうど神がイスラエルの民が捧げた礼拝を忌み嫌われたように、教会で開催される「礼拝」という名前の付いたイベントは、主に喜ばれることはないのです。
なんとかして教会に人を集めることだけを考える教会は「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)と教えながら、世の友であろうと努めます。しかしヤコブが「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4b)と言うように、本来ならば狭いはずの門を広く大きくしてしまうとき、人は集まっても神の教会としての特色はますます希薄なものになってしまうのです。霊的な状態を気にかけない人たちは教会に人が集まることを求めて働きを選択しますが、教会の霊的な状態を憂慮する人たちは霊的な回復を求めるので、そこに大きな溝が生じることになります。
様々な解決策を講じていながら霊的な回復が見られない教会は、その現状に憂い、失望し、やがて憤っていきます。この怒りは「犯人捜し」へと人々の心を押しやっていきます。「自分たちは一生懸命教会のことを考えて働きをしているのに、問題が継続するのは誰かのせいだ!」というような言葉は、このような教会で度々耳にする言葉です。ある人たちは助けを与えてくれない自分たちの教団に怒りを持ちます。これまで働きをしてきた牧師のせいだと考える人もいます。教会に来なくなった人たちが悪者であり、自分たちのやり方に従わない者たちが問題の起源だと思い込みます。キリストの愛にあふれているはずの教会が、互いにいがみ合う場所になっていくのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

主はヨハネ13:34–35でこう告げられました。愛のかけた教会は教会ではありません。互いへの愛と尊敬に欠けた教会、牧師が信徒を非難し信徒が牧師を批判する教会は、主の弟子たちが集う場所であると人々が認めることのできない場所であり、ましてや主ご自身が喜ぶ場所となり得ることはできないのです[1]。何よりもこのような教会で懸念されることは、単にそこに集う人の間に愛よりも怒りが見られるだけでなく、この怒りが神に向けられていくようになることです。この神に対する怒りは教会が回復に向かっていくために最も必要な主に対する信頼と希望を教会から奪い去っていきます。こうして教会はまた一歩、死への道を進んでいくのです。


[1] 第一段階:否認で記したように、罪の中にいる者やふさわしくない牧師を責め、戒め、正すことは聖書がすべての聖徒に命じていることであり、罪を悔い改め、主が求める状態に立ち返るために必要な愛の行為です。しかし、怒りに満ちた教会は、自分たちの願うことが起こらないことに対して周りを責めたり非難したりします。このような状態が主の教会のあるべき姿ではないのは明らかです。