注)「第一段階:否認」は、1)伝道の働きに関する否認、2)教会員の罪に関する否認、3)牧師の資質に関する否認をご覧ください。

第二段階:反動

否認の期間が長ければ長いほど、教会は衰弱していきます。そして教会はその現実にいつかは気づくようになります。礼拝出席者が減少し、奉仕者が集まらず、活動面でも財政面でも行き詰まりが見えてくるとき、何かをしなければならないという焦りの中で方法を講じます。しかし残念ながら多くの教会はしっかりと現状を吟味して聖書的な解決を見いだす代わりに、安易な解決を求めます。一生懸命考えた結果の対応策かもしれませんが、起こっている問題を正しく分析し、みことばの真理に基づいて正しい解決策を講じていないので、このような安易な解決策はますます教会を悪い方向へと進めてしまいます。
この安易な解決策は大きく二つの種類に分類することができるでしょう。一つは「今までしてきたことをさらに熱心に行う」ことです。伝統を重んじる日本の教会は、「昔からしてきたよいこと」を継続することを好みます。教会が成長していたときに盛り上がっていた働きを再び盛り上げようとしたり、これまで行ってきた様々な集会をより頻繁に、またはより熱心に行おうと努めるのです。しかし、少なくともしばらくの間、思ったような成果を上げてこなかった働きをどれだけ熱心に続けたとしても、それが突然多くの人の関心を集めるものに変わるわけではありません。以前行っていたことを熱心にすること自体が間違っていたり、悪いことであったりするわけではありませんが、なぜ願っていた結果をもたらさなかったのかをしっかりと吟味せずに、働きだけを継続することは賢いことではないのです。
もう一つの安易な解決策は「問題を解決する特効薬に飛びつく」ことです。行き詰まった状況を打破する秘策を探して、それを行いさえすれば教会が活性化すると考えるのです。「新しい牧師を招聘すれば教会はよくなる」という考え方や[1]、「人を多く集める流行のプログラムを取り入れれば教会は活性化する」という意見は日本の教会でも頻繁に耳にすることです。1980年代以降、特に多くの流行が日本のキリスト教会にもありました。「このプログラムは人を集める」や「このような祈りが用いられる」といった謳い文句に踊らされて、多くの教会がこうした流行を追い求めてきました。しかし、これらの方法はある特定の教会では「成功した」かもしれませんが、すべての教会で同じように成功をもたらすものではないのです。
往々にしてこのようなアプローチは、「何をするか」や「どのようにするか」にのみ関心が向けられていて、本来考えるべき「なぜするのか」「何のためにするのか」ということを無視した解決策です。安易な解決策は基本的に「どうやったらもっと人が集まるのか」ということにのみ焦点が置かれています。つまり「人数が増えることが良いこと」という実利主義に基づいて教会の方針が定まっていくのです。ここにはさらなる危険が満ちあふれています。なぜなら霊的に優れた人ではなく、より多くの人を集めることができる人間的に魅力的な人が教会の中で重んじられ、人が去って行っても真理を曲げるような働きをしないという信念を持つのではなく、人が集まるために真理を曲げてもかまわないという態度で働きをするようになるからです。
現状への反動として安易な解決を求める教会は、実は本当の意味で変わりたいと思っている教会ではありません。いやむしろ本質的な変化は必要ないと考えているのです。特定の部分を修正さえすれば良くなると考えているだけなのです。時に牧師を変え、新しいプログラムを導入することによって教会が活性化することがあるでしょう。しかし、それは必ずしも教会が死の道から脱したことを現しているわけではありません。ひょっとすると、ただ世と同調することによって、より多くの未信者が居心地が良くなっているだけなのかもしれないからです。だとすれば、それは残念ながら主が望まれるような教会ではありません。なぜなら教会とはキリストを信じる者たちの集まりだからです。
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[1] これは特に無牧の教会にみることができる姿勢です。確かに良い牧会者に導かれることは大切なことですが、「牧師さえいれば・・・」という考えは必ずしもよい考えではないことをすべてのクリスチャンは理解していなければなりません。特にパート3で記しているように、聖書的な基準に沿って牧会者を招聘しなければ、たとえどれだけリーダーシップに長けた人物が牧師になったとしても、教会が正しい方向に舵を切ることはありません。