注)この記事は「第一段階:否認」の三つ目の否認の例です。一つ目の例である伝道の働きに関する否認はこちらを二つ目の例である教会員の罪に関する否認はこちらをご覧ください。

牧師の資質に関する否認

死にゆく教会が持つ否認という特徴は、牧師の資質に関する否認という形で現れることがあります。こうした教会は医師免許を持っていない院長のいる病院に例えることができます。医師の資格を持っていないことが分からないうちは、一定の知識と人望があれば人が集まってくるでしょう。しかし、ひとたび無免許であることが発覚すれば、そこにやって来る人はいなくなります。
聖書にはどのような人物が教会の長老として群れを牧し、監督することができるのかを明瞭に教えています[1]。特に第一テモテ3:1–7とテトス1:6–9では牧会者として与えられている勤めを果たすことができる人物の具体的な判断基準が記されています。「非難されるところのない」という言葉で始まる二つの基準を完全に満たすことができる人物はキリストだけですが、教会において誰よりもこうした人物であろうと努め、日々このような人物へと成長している人物こそが牧師として教会を導くにふさわしい者なのです。
牧会者不足で悩む今日の日本の教会は、聖書が挙げる客観的な判断基準に基づいて牧師を招聘することがありません。牧師の選考過程の中には、牧師になりたいとさえ思っていれば、それ以上を問わないようなものさえあります。牧師になりたいという意思があり、神学校を卒業していれば、たとえ霊的に未熟な人物であったとしても、牧師として招聘してくれる教会があるのが現状です。「主からの召し」を誰もが重要視しますが、焦点が当てられるのは主観的な「私はこう感じています」という部分だけであって、聖書が記す客観的な判断基準である「召されている人物像」に照らし合わせて、その主観的感情が本物であるのかが吟味されることはほとんどありません。これは「プロスポーツ選手になりたい」と思っている小さな子どもと選手契約を交わすようなものです。
「医師になりたい」と思う人はたくさんいるでしょうが、その思いを持っている人がすべて医師になれるわけでも、ましてや医師になるべきでもありません。同様に「牧師になりたい」と思う人がすべて牧師にふさわしい人ではないのです。
聖書は牧会者として教会を導くにふさわしい者がどのように者なのかを次のように明瞭に示しています。

「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。--自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう--また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(2テモテ3:1-7)

2テモテ3:1–7に記されている条件はテトス1:5–9でも繰り返されています。パウロは教会のリーダーを任命するためにテモテとテトスをエペソやクレテに送り出しました。彼らは「私は牧会をしたい!」と手を挙げた人をこの任に就けたのではなく、明瞭な聖書的基準に基づいてふさわしい人物かどうかを吟味したのです。ここには道徳的なこと、金銭に関すること、家族に関すること、性格や愛の実践に関すること、信徒としての成熟度、世との関わり方、そして教える能力などに関する基準があります。これらの基準に則して牧会者が立てられないとき、教会はキリストのからだとして成長することはないのです。
健全な導き手がいなければ、健全な教会は存在し得ません。ふさわしくない人物が牧師になると、教会は独裁的になったり、秩序がなくなったりします。神が教会に求めていることを正しく判断することができるだけの成熟度がないために、方針が不明瞭になり、教会が迷走し始めます。聖書をまっすぐに説き明かすことをせず、むしろ自分の言いたいことを聖書を使って語るようになります。教会の成長のために働くのではなく、自分の私利私欲のために働き、信徒の徳を高めるために仕えるのではなく、自分の栄誉のために信徒に仕えさせ、神の御国を広げるために生きるのではなく、自分の王国を守り拡張するために生きる者が牧師であるならば、その教会は主が疎まれる教会であるに違いありません。こうして神が喜ぶ教会から、神がさげすむ教会へと大きく舵を切ることになるのです。
すべての人が牧師にふさわしい人物ではありません。そして一度ふさわしいと認められた人物が永続的にふさわしい者であり続けるわけでもありません。教会は聖書が提示する長老・監督の条件に照らし合わせて牧師を吟味しなければなりません。これを怠るならば、サウルやアハズやマナセに導かれたイスラエルのように滅びへと進んでいくのです。


[1] 「長老・監督・牧師」は別々の人物の話をしているのではなく、一人の人物の持つ異なった責任・役割について言及しています。つまり長老は監督であり、監督は牧師であり、牧師は長老なのです(参照:使徒20:28; 1ペテロ5:1–2など)。