注)この記事は「第一段階:否認」の二つ目の否認の例です。一つ目の例である伝道の働きに関する否認はこちらをご覧ください。

教会員の罪に関する否認

清潔な人が「ゴミ屋敷」に魅力を感じないのと同じように、罪が蔓延するところに神の聖徒は魅力を感じません。愛という名のもとに教会の中に顕著に見られる罪の問題を放置するならば、教会は「聖」という最も大切な特徴を失い、世と変わらない姿に変貌していきます。
新約聖書は、罪の中に継続的に身を置く兄弟姉妹に対して教会がどのように対応するべきかをはっきりと教えています。教会戒規に関する教えの代表的なものはマタイ18:15–20ですが、それ以外にもコリントの手紙やテサロニケの手紙や、またテモテやテトスの手紙にも罪を犯した兄弟との関わり方が記されています。ガラテヤ6:1では次のような言葉を見ることができます。

兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

教会は、人の言動の粗探しをして罪を指摘し合うところではありませんが、犯されている罪を見て、それを黙認するところでもありません。キリストに似た者となることを皆で目指している教会は、その様な者となるために互いに励まし合い、教え合い、戒め合い、助け合うところです。教会の中で見られる罪を否認するところではないのです。
このように罪を否認する教会は、往々にして「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」(1テサロニケ4:3)という明瞭な教えに着目することがあまりありません。むしろ「神の愛」を強調し、「私たちも罪人だから・・・」と言って、罪が犯されることを黙認する姿勢に言い訳をします。こうした教会では偏った聖書の教えがなされます。パウロがエペソの教会でしたように「神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせ(る)」(使徒20:27)のではなく、一部の特定のテーマだけが毎週のように講壇から語られます。その結果「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(1ヨハネ2:6)や、キリストの現れの日に主に似た者に変えられるという「望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(1ヨハネ3:4)ということを聖書から教えられることがないので、神の求める聖さに対する関心が薄いのです。
聖書の真理が正しく説き明かされることがなければ、人は「聖」という特徴を身につけることはできません(ヨハネ17:17)。毎週の説教が「福音」に関することだけにとどまり、どのメッセージを聞いても同じような内容、同じような適用しか聞くことがなければ、教会は「福音の概要」を知り「救われる方法」を理解するかもしれませんが、「福音の要求」を知り、「救われた者として生きる方法」を理解できずに教会生活を送ることになるでしょう。救われるために必要なことを知っていたとしても、救われた者として生きる方法を知らなければ、そこに待っているのはいつまでたっても主に喜ばれない人生を生きる自分に対する絶望なのです。「世の光」であるはずのクリスチャンがその光を輝かせず、「地の塩」であるはずのクリスチャンが塩気を失ってしまっているならば、神の民の集まりであるはずの教会は、世にある様々な集会や同好会と何ら変わりがありません。神の民として持つべき「聖さ」を失い、世と変わらない会衆となっていくならば、その教会は「キリスト教会」という名称が付いているかもしれませんが、キリストの教会ではなくなっていくでしょう。この道を進み続けるなら、それはまさに死に向かって歩みを進めることになるのです。