第一段階:否認

死にゆく教会が辿る最初の過程は『否認』です。教会にある問題について目を向けることをせず、まだ症状が軽い状態の時に必要な治療をしないことを意味しています。ここには様々な否認の種類がありますが、その中でも頻繁に見られるいくつかの事柄をここでは例として挙げてみましょう。

伝道の働きに関する否認

子どもが生まれなければ家系は消滅します。同じように新しく救われる人が起こされていかなければ、教会は消滅します。これは自明の理であり、あえて多くのことを記す必要がないことかもしれません。けれども、死にゆく教会の特徴を考えるにあたって、この自明のことに教会は今一度注目しなければなりません。伝道の働きに関する否認は大きく二つの形で教会の中に蔓延していきます。こうした否認は死にゆく教会に見られる最初の特徴です。

まず挙げることができるのは、伝道の責任に関する否認です。これは教会が人数的に成長しているときにも起こりうる衰退の起因の一つと考えることができます。教会に集う聖徒が「自分は伝道しなくてもよい」と考えるとき、教会は死への第一歩を踏み出します。このように考える原因は多種多様ですが、すべての信徒には「弟子を作る」(マタイ28:19–20)という責任が与えられていることを正しく理解せず、伝道は特定の人たちの働きであると思い込むとき、伝道の責任に関する否認が起こります。福音をしっかりと説明することができるように訓練せず、救いの道具として主に用いられることの幸いを教えず、人が救われることの素晴らしさを知らせない教会では、自分たちが教会に集うことができているというに満足を見いだし、伝道の責任を否認するようになっていくのです。

次の挙げることができるのは、教会員(礼拝出席者)の減少に対する否認です。教会における様々な集会において空席が目立つようになっても、それに対する警鐘が鳴らず、何事もないかのように時間だけが過ぎていくとき、教会は谷底に向かって歩を進めているのです。これは往々にして聖徒たちの無関心に原因があります。単に教会に集っているほかの人たちの状態に無関心なだけでなく、人が集まらなくなっているという事実に対して何の思いも抱かない無関心さが問題なのです。そしてこの無関心は「お客様」(または「消費者」)として教会に在籍している人が多ければ多いほど見ることができる特徴です。自分のことしか考えていない人は、出席者数が減少しても、むしろ「自分の好きなところに座ることができる」としか思わないでしょう。積極的に教会の問題を考え、解決を講じることを怠る時、教会は死への道を進み始めるです。

伝道の働きを否認する教会は、教会が衰退していくことに目を向けようとはしません。こうした教会のリーダーたちはバビロンによる捕囚を宣告されたヒゼキヤ王のように、教会の現状を見て「自分が生きている間は、平安で安全だろう」(イザヤ39:8)と考え、次の世代に教会を託さなければならないという責任を忘れている可能性があります。救われる人がなかなか起こされない厳しい宣教地である日本だからこそ、その厳しさを言い訳にして、先細っていくことを必然と考える誘惑に負けているかもしれません。

けれども、どれだけ現状を否認しても、現実から逃れることはできません。人が集まらなければ教会は消滅します。救われる人が起こされていかなければ教会は消滅します[1]。それゆえに伝道の働きを否認することは教会の死を早めることになるのです。[続く]


[1] 確かに人を救うのは神の働きです。ですから救われる人が起こされるかどうかは、究極的に見れば神の計画に基づきます。しかし、この事実は私たちに与えられている責任を否定するものではありません。福音を宣べ伝えることはすべてのクリスチャンに命じられている責任であり、その宣教の言葉を通して神は人を救うことをよしとされているのです。教会はこの責任を熱心に全うするように努めていかなければならないのです。