クリスチャンはどのような状況の中にあっても「平安に満ちた生涯」を送ることができると聖書は教えています。この平安は何か神秘的なものではなく、キリストによって贖われたクリスチャンが、主の教えに沿って生きていくときに経験することのできるものです。つまり私たちはみことばの提示する明瞭な教えに自らの思いと行動を沿わせていくときに、いつでも、どんな状況の中でも「平安に満ちた生涯」を送ることができると聖書は約束するのです。

しかし、多くのクリスチャンは神から与えられているこのすばらしい祝福を実際に経験することなく日々の様々な問題の中で葛藤しています。「私はクリスチャンです」と告白する人たちでも不安と戦い、思い煩いの中で希望を失い、喜びに欠けた人生の中でもがき苦しむことが多々あるのです。しかし、なぜこのようなことが起こるのでしょう。聖書は私たちが平安に満ちて生きることを約束しているのではないのでしょうか。聖書の言葉は単なる気休めで、実際の私たちの生活に平安をもたらす力がないのでしょうか。

もちろん、この質問の答えは「否」です。聖書は空約束の本ではありません。聖書は神のことばであり、偽りも誤りもない絶対的な真理の書です。みことばには力があり、神が語ったことは必ず全うされます。ではなぜクリスチャンでありながら、神が約束する平安を見いだせずに生きている人々がいるのでしょう。いったいどうしたら「平安に満ちた生涯」を生きることができるのでしょう。パウロはその答えを次のように告げています。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(ピリピ4:4–9)

これまでの投稿を通して、私たちは平安に満ちた生涯を送るためには条件があったことをまず学びました。聖書的な’喜び耐え忍ぶ心、そして正しい応答が平安に満ちた生涯を送るために必要だとパウロは教えたのです。この条件に沿って生きる者には神からの確かな約束が与えられていました。「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」とパウロは約束するのです。さらにパウロはこの平安を継続的に得るための秘訣を教えてくれました。それは私たちがあらゆる事柄を正しく考えることであり、あらゆる状況下で正しく行動することでした。救われた者にふさわしい正しい考えであらゆる事柄を捉え、学んできたことを実際に生きることこそが継続して「平安に満ちた生涯」を生きるための秘訣だったのです。

平安に満ちた生涯を送ることができる保証

これらの事柄を告げた後にパウロはこの平安が確実なものであることを保証してこのセクションを閉じます。ちょうど条件に関する話を終えた後に7節で約束を与えたのと同じように、パウロは秘訣に関して記した後に9節の最後で改めて確約を与えます。ここでパウロは「平和の神があなたがたとともにいてくださいます」と記しています。何よりも興味深いのは7節では「神の平安が」となっている言葉が、ここでは「平和の神が」と逆転していることです。日本語では違う言葉が使われていますが原文では「平安」も「平和」も同じ単語です。全く同じ言葉が使われているので、言わんとしていることの概要は大きく変わらないかもしれません。しかし、語順が変わることによって、パウロが告げようとしている具体的な内容と強調点が明らかに変わるのです。

7節の表現は「神によって作られた平和」について告げていて、この平安の源泉が神にあることを強調しています。つまり神から与えられる平安が私たちを守ってくれると言っているのです。それに対して9節では「平安が私たちとともにある」と言うのではなく、平安の源である神ご自身がともにいてくださることに言及しています [1]。パウロは「私たちを守ってくれる平安の源である神ご自身が私たちとともにいてくださるのだ」と告げているのです。

なぜ私たちは予期せぬことばかり起こる、不確かで困難に満ちた生涯において平安を持つことができるのでしょう。なぜ偉大な信仰者の足跡に倣って聖書の真理を実践して生きていくときに平安に満ちた生涯を送ることができるのでしょう。答えは単純なものです。なぜなら神が私たちとともにいてくださるからです。神の臨在が確かにあるからなのです。私たちに与えられるのは平安だけではありません。神はご自分の手で「平安」を私たちに届けててくださり、その平安によって歩み続ける私たちと一緒に歩んでくださるのです。

神は偏在な方ですから、私たちが間違った生き方をしていたとしても私たちとともにおられます。しかし私たちがみことばが教えることを実践し、そのことに思い巡らして正しい考えをもって生きて行くとき、神は平安を与えるというすばらしい祝福をもって私たちとともにいてくださるのです。未信者とも神はともにおられます。しかしその関係は敵対関係です。罪を犯しているクリスチャンに対して神はむちをもって横におられます。従順に神の前を歩んで行く者に対して神はその大きな翼を広げて、私たちを守りつつ歩んでくださるのです。パウロはそのことを言っているのです。詩篇23篇でダビデは次のように記します。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」詩篇23:4

ダビデは「たとえどのような暗闇を、断崖絶壁の場所を歩んだとしても私は恐れません、心配もしません、羊飼いであるあなたが私の横にいてくださるから、私の心は平安に満たされています」と告げるのです。彼はよく分かっていたのです。神が導いてくださるということを。どこを通っていたとしても、神が自分を義の道へと導いてくださることを。その途上には暗く冷たく険しい道を通ることがあるでしょう。しかし、そのとき神が横にいてくださるからダビデは恐れないと言うのです。ダビデだけではありません。アブラハムに対して神は同じことを言われました。ヤコブにも、モーセにもヨシュアにも言われました。「恐れるな、私があなたとともにいる」と。神は私たちが神の前に従順に歩んで行くときに、確かに私たちを守り、助け、導き続けてくださると保証してくださっているのです。神は私たちにも「私はあなたとともにいる」とおっしゃってくださるのです。

皆さんは、キリストを信じる者たちは平安に満ちた生涯を送ることができると思いますか。様々な試練に遭うとき神を信頼しない理由はありますか。神はご自分の民を気遣われない方なのでしょうか。神はご自分の民を憎まれるのでしょうか。すべては万全ではないのですか。神は私たちの生涯においてご自身の栄光と私たちの最善のためにすべてを働かせておられないのですか。私たちは思い煩うあまり、平安を失い、希望を失い、心を落ち着かせて日々を過ごせなくなって当然なのでしょうか。

このシリーズを書き続けながら、一つの古い賛美歌が幾度となく心に響いていました。日本語では賛美歌として親しまれている「我が身の望みは」という詩です。原詩を訳すと次のようになります。

1) 私の希望は他の何者でもなく、
ただイエスの血と義の上に築かれています。
たとえどれほど甘く麗しい思いがあっても私はそれを信用しません。
私の’すべての信頼はただイエスの御名のうちにのみあるからです。

 

<おりかえし>
キリストという堅強な岩に私は立っています。
他のすべての地は流砂なのです。
他のすべての地は流砂なのです。

 

2) 暗闇が御顔を隠すようなときでも、
私は主の変わらぬ恵みに安らぎます。
あらゆる強く激しい暴風の中でも、
私の錨は私を幕の内側に保つのです。

 

3) 主の誓い、主の契約、主の御血が
圧倒するほどの洪水の中で私を支えてくださいます。
私の周りの物すべてが崩れ去ったときに
主は私の希望であり頼りのすべてです。

 

4) トランペットの音と共に主がやって来るとき、
どうか主のうちに私が見いだされるように。
主の義にのみ身を包み、
欠点のない者として御座の前に立てるように。

聖書は私たちが困難のない人生を送ることを約束しません。しかし、困難に溢れた人生の中で、キリストの御業のゆえに神との間に平和を持ち、神が備える平安と平安を与える神の臨在のゆえに平安に満ちた生涯を送ることができると約束します。人生の様々な問題は現実のものです。苦しい状況の中に身を置かなければならないことが多々あります。しかし、激しく吹き荒れる嵐の中で、怒濤のように押し寄せる荒波にたたきつけられたとしても、私たちはキリストという堅強な岩に立っていることを忘れてはなりません。主に信頼する者は「すべてが万全である」と高らかに宣言することができるのです。主の愛を知る者は主の愛を示すことができるのです。主の心遣いを理解している者は主に感謝をもって祈ることができるのです。神の真理に則して者を考え、主の真理に基づいて生きるとき、私たちは確かに平安に満ちた生涯を送ることができるのです。

キリスト者の皆さん、主が与えてくださっているすばらしい祝福から目をそらさないようにしてください。この方との和解が与えられ、この方の平安が備えられていることを忘れないでください。

どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。


[1] 原文では9節の「平和」に定冠詞が付けられています。これは7節で登場した「平安」を指すために使われているもので、あえて訳すならば「あの(7節に出てきた)平安」となります。