ピリピの教会に宛てた手紙に登場する最後の命令は4章9節に出てくる「実行しなさい」です。ここで使われている動詞は「何をしているのか」ということに焦点を当てるもので、私たちが平安に満ちた生涯を送るために何をしなければならないのかを示してくれます。前回の投稿で見たように、9節に記されている四つの行動は大きく二つの事柄に区分することができます。一つは「聖書の基準に沿って生きなければばならない」ということで、もう一つは「敬虔な信仰者の模範に沿って生きなければならない」ということです。今回はこの二つ目の区分について考えていきましょう。
敬虔な信仰者の模範に沿っていきなければならない
「学び、受け」という最初の二つの動詞がパウロからピリピの信徒たちに伝授された聖書的な教えについて語っているように、「聞き、また見たこと」という次の二つの動詞もパウロの個人的な模範に沿って信徒たちが生きなければならないことを教えています。確かに「聞く」という動詞は、パウロの教えを聞いたことに関連すると考えることもできますが、パウロが伝えようとしていることは彼の教えを人々が聞いたことではなく、彼の生涯について聞いたことに言及していると考える方がより良い理解でしょう。この理解は特に1:30でパウロが同じ二つの動詞を使って次のように言っていることから知ることができます。

あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。

ここでパウロはピリピにいたときに人々が自分に関して見たこと、そして今人々が自分に関して聞いていることについて話をしています。この人々がパウロに関して聞いてきたこと、見てきたことが9節の焦点となっているのです。
ピリピの信徒たちは間違いなくパウロの生涯に関する知識を持っていました。信仰を持つ前にどのような生き方をしてきたのか、また信仰を持った後どのような変化があったのかを彼らはパウロから聞いていました。パウロがどれほど多くの困難の中に置かれ、どれほど多くの艱難を耐え忍び、迫害の中にあっても主に仕え続けてきたのかを彼らは見て、聞いていました。彼らはパウロの教会に対する愛と心づかいを見ました。伝道に対する情熱や福音を伝えようとする姿勢をパウロがどのように実際に生きてきたのかを彼らは知っていたのです。だからパウロは「あなたがたが聞き、見たことを実行しなさい」と求めるのです。
この言葉は3章でパウロがすでに告げたことを私たちに思い起こさせます。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

平安に満ちた生涯を送るために、私たちには聖書の真理が必要ですが、同時にこの真理に沿った生き方を実践する人たちの模範が必要です。私たちが追従することができる生きかたを示してくれる人々が必要なのです。これはまさに主イエス・キリストご自身が十二弟子を訓練する際に取った方法でもあります。主は確かに弟子たちに真理を教えられましたが、主は弟子たちがその真理を生きることができるように、自らの生涯を通して模範を示され続けられました。イエスは次のように告げます。
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

主が命じていることは、キリスト御自身がすでに弟子たちに具体的になされたことであり、それゆえに弟子たちはその命令をどのように実践するべきなのかを知っていたのです。
あまり声を大にして訴えられることはありませんが、実は多くのクリスチャンが聖書の命令を実践することは不可能だと感じています。私たちのできない事を神が命じているかのように感じているのです。このように感じている人々は「いつも喜んでいなさい」という命令を「できる限り喜びなさい」と心の中で読み替えます。「いつも喜んでいる人」を見たことがないので、そんな生き方をすることは不可能だと結論づけてしまうのです。また、ある人は不可能だとは思わなくても、どうやって様々な困難の中で喜びを持てるのかが分からないがので命令を実践することをあきらめてしまいます。学や説教の中で、「方法」を聞いたとしても、実際に主が望むような生き方を自分の生涯で実践するとはどういうことなのかがよく分からないので、幾度か試してはみますが、なかなか変化が起こらないがゆえにすぐにあきらめてしまうのです。
これらの人々に必要なのは、彼らの前に模範を示してくれる成熟した信徒たちです。神は不可能なことを命じるような理不尽な方ではありません。そしてこの事実は神の望むような生き方をしてきた信仰の先輩たちがいるという事実を私たちに教えます。日本で生きる信徒たちは日本という文化背景の中で、謙遜を大切にし、「私をみならいなさい」と言うことを拒みます。「私はまだまだ足りません」というのは正論です。誰も完全な人はいないのです。しかし、もし私たちが真理を教えられ、その真理によって変えられ、より主に従順に生きることができる者へとなっていくならば、私たちは自分たちよりも未熟な信徒たちに対して「私をみならいなさい」と言わなければならないのです。
どのように困難に立ち向かい、どのように誘惑に打ち勝ってきたのかを成熟した信徒は分かち合わなければなりません。未熟な信徒はその模範に目を留め、彼らの知恵に耳を傾ける必要があります。どのように罪を犯し、どのようにそこから立ち返ったのかを成熟した信徒は分かち合わなければなりません。未熟な信徒が同じ過ちを犯さないように、何に注意をしなければならないのかを丁寧に教えて上げる必要があるのです。罪を犯さないクリスチャンはいません。しかし、正しく罪を告白し、同じ罪を犯さないようになるために何を学び、何を心がけなければならないのかを成熟した信徒は未熟な信徒たちに見せることも、聞かせることもできるのです。
もし私たちの周りにそのような成熟した信徒たちがいなければ、私たちはなかなか確信に満ちて主の教えの中を歩むことはできないでしょう。しかし、パウロをはじめとして、その教えに同意し、その教えをしっかりと生きてきた人々が、私たちの周りに与えられているのです。彼らの証が、私たちが平安に満ちた生涯を送ることができることの証明です。彼らの人生が主にある平安の確証なのです。
パウロは「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい」と命じました。私たちはパウロの教えた真理に沿って生き、パウロの示した模範に沿って歩むことが求められているのです。なぜならパウロはみことばの真理に沿って平安に満ちた生涯を送ることを学び、実際に平安に満ちた生涯を生きたからです。すべてのクリスチャンがこの模範に沿って生きることができます。またすべてのクリスチャンがほかのクリスチャンのために、平安に満ちた生涯を送る生き方の模範となることができるのです。