人は「これをした方が良い」と分かっていながらも、なかなか良い正しいことをすることがありません。様々な理由を付けてやらなければならないことをしないでいることを正当化しようとします。この傾向はエデンの園でアダムとエバが「取って食べてはならない」と言われた木から実を取って食べたその日から、私たち人間の社会の中に見られる悲しい現実です。そしてこの悲しい現実は、残念ながらクリスチャンの生涯にも見て取ることでもあります。クリスチャンは聖書が全く偽りのない真実なものであると言いますが、まるでみことばには力がないかのように日々過ごしています。「神が語られていることは正しいことだけれども、私はそれをしたくありません」と思ったり、時には「今の私には聖書は適用しません」と考えたりすることで、主が求めることを行わなくても良いと自分に言い聞かせることが多々あるのです。
このような状態にとどまっているとき、正しいことをしないがゆえに、ひとり一人の状況は決して良い方向には進んでいきません。勉強をしなければ試験に合格しないことが分かっていながら、「友達と遊ぶことの方が今は大事なのです」と言って勉強しないならば、試験の日に何が起こるかは明らかです。同じように、神が命じられていることは正しいと知り、その命令を行うことが正しい事であると理解しながら、「私にはそれはできません」や「今置かれている状況では無理です」と言い続けて、なすべき正しいことを行おうとしないならば、そこに悪い結果が伴うことは容易に想像することができるでしょう。しかし、不思議なことに私たちクリスチャンは、このような状況の中で痛みや苦しみが増し加わり、問題が解決していかないときに、正しいことをしない自分に非難の矛先を向けるのではなく、自分以外のあらゆるものに(時に神にさえも)その責任を押しつけています。心に平安がないときに、私たちは周りの状況に原因を見いだそうとし、周りの人々に責任を押しつけ、平安を与える約束を守ってくれない神に非難の指を向けるのです。
これまでこのシリーズを通して学んできたように、神は確かに私たちが平安に満ちた生涯を送ることができると告げておられます。パウロはピリピ4:4–6で、平安に満ちた生涯を送るための条件を明らかにしました。神がご自身の栄光とご自分の民の最善のために常に最良のことをなしてくださっていることを知っているゆえに持つことができる「聖書的喜び」、どんな人に対しても寛容な心を示し続ける「耐え忍ぶ心」、そしてどのような時でも心を二つに割るのではなく、主に対する揺るぎない信頼に基づいてなされる「正しい応答」が、平安に満ちた生涯を送るための必要条件でした。そしてパウロは、この条件に適った者に与えられている約束を7節で明示してくれました。それが「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」という約束です。条件を満たし、約束を正しく理解した者は、平安に満ちた生涯を送るために必要な事柄(秘訣)を実践しようとします。なぜなら一度条件を満たせば自動的に平安がやってくるのではないからです。日々の生活の中で私たちが何をどのように考え、どのように生きていくのかが、主の与えようとしている平安に満ちて生きられるかどうかを大きく左右するのです。パウロは8節で「正しく考ること(聖書的に考えること)」がいかに大切なことなのかを私たちに教えてくれました。そして最後にパウロが私たちに教えてくれることは「正しい行動をとる(聖書的に生きること)」です。

正しく行動することが平安に満ちた生涯をもたらす

様々な感情に揺り動かされて正しく聖書的な視点で者を考えることが困難な私たちに、パウロは聖書的に考えることを教えました。しかし「正しく考えさえすれば平安に満ちる生涯を送るようになるのか?」と問われれば、パウロの回答は「否」です。もし私たちが本当に正しく考えるようになれば、それは必ず一つの結果を私たちの生涯にもたらせます。その結果とは行動の変化です。別の言い方をすれば、どれだけ考えたとしてもそれが行動を変えるものでなければ、そこには変化はないということです。平安に満ちた生涯とは、私たちが神の基準に従って従順に生きることがなければ得ることのできないものなのです。このことをパウロの命令からはっきりと見て取ることができます。
パウロはこの手紙の最後に記す命令として「実行しなさい」と告げます。ギリシャ語には行動を表す単語がいくつかあるのですが、パウロはあえて特に「活動」を表現する動詞をここで用いています。つまり「何をしているのか」ということに焦点が当たっているのです。ではいったい何を私たちはしなければならないのでしょう。どのような行動を取ることによって私たちは平安に満ちた生涯を送ることができるのでしょう。その回答を私たちは9節から知ることができます。実行するべき事柄としてパウロは「私から学び、受け、聞き、また見たこと」の四つをあげます。これら四つは大きく二つに区分することができます。
聖書の教えに沿って生きなければならない
最初の二つの言葉「学ぶ」と「受ける」は近い意味を持っている言葉ですが、強調点に違いを見ることができます。前者は、指導や教えを受けて特定の事柄を学ぶことを指し、後者は内容を受け取るということだけでなく、受け継がれていくという概念が含まれています(参照:1テサロニケ2: 13)。この二つの言葉を通して、ピリピの人々がパウロから学んだことが表現されているのです。新約聖書が完成するまでの間、キリストを信じる者たちがどのように神の前に敬虔な者として生きることができるのかを教えるために、使徒たちには大きな役割が与えられていました。彼らは神のことばを人々に教える働きが託されていたのです。特にパウロは異邦人の働きにおいて、最も重要な教師のひとりでした。パウロは「あなたがたが学び、受けたことを実行しなさい」と告げることによって、ピリピの人たちがパウロから直接、また手紙などを通して教えられたひとつ一つの真理を行うように求めていたのです。
新改訳聖書には訳出されていませんが、原文には9節の冒頭には関係代名詞があります。この関係代名詞には8節の「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」を受けて「それらのことがらに関して」というパウロの意図を見いだすことができます。つまりパウロは、8節に記されていることをあなたたちは学び、それらを受けてきたのだら、それを実践しなさいと言っているのです。
正しいことを知っているだけでは十分ではありません。その正しいことが行動につながらなければ、変化は起こらないのです。みことばの真理を学ぶことは大切なことです。しかし真理を知ることは私たちの生涯が変わることと同じことではないのです。みことばの真理を知ることは変化の土台ですが、土台だけでは神が望まれる人物になることはできません。私たちは教えられたことを実際に生きることによって初めて平安に満ちた生涯を送ることができるようになるのです。
私たちの生涯には、神が私たちに求めておられることと、私たちが願っていることが違うことが多々あります。例えば神は「愛しなさい」と命じるけれども、「愛したくない」いや「憎みたい」と思う相手がいるかもしれません。希望を失ってしまうような状況の中におかれて絶望感に満たされているときにも、聖書は希望があることを教えます。そんなときに私たちには選択があるのです。現状を考慮して今自分がするべきだと思う行動を取るか、神が私たちに求めるがゆえにするべきだと分かっている行動を取るかという選択です。パウロはこの手紙を通して、ピリピの信徒たちに、そして私たちに告げるのです。「あなたは私から学び、受けたことを実行しなさい」と。
残念ながら多くのクリスチャンが平安に満ちた生涯を継続的に生きることができずにいます。 平安に満たされて生きる時間が短いのは、私たちがそれを願っていないからではありません。 また、そのような人生を歩むことができないのは、必ずしもどうすればそのような歩みができるのかを知らないからでもありません。私たちはみことばを通して学んでいます。多くのクリスチャンがピリピ4:6–7を暗唱しています。何度も読んで覚えているので、どうすれば平安を得られるのかと尋ねれば、正しい回答をしてくれるでしょう。それでも私たちが平安に満ちた生涯を送ることができないのはなぜでしょう。それは、その真理を思うことはあっても、そのように生きて行かないからです。知っているというその知識に基づいて正しい行動を取り続けないからです。何が正しいのかを知っていることだけでは十分ではありません。それが実際に私たちの行動に現われてこなければ私たちのうちに変化は起こらないのです。神のみことばの真理を私たちがしっかり学び受け、みことばを知ることは常に重要なことですが、その知識だけで私たちが変わって行くと思うのは大きな誤解です。その知識は私たちが変化して行くことに助けになります。けれども私たちが実際にその土台の上に家を建てなければ、約束されている祝福の中に住むことはないのです。
私たちは真理を生きなければなりません。教えられたことを自分の生活に生かしていかなければなりません。学んだ真理に基づいてキリストに似た者になっていくときに、私たちはどのような状況の中にあっても平安に満ちた生涯を送ることができるようになるのです。それこそが成熟したクリスチャンの姿なのです。