ピリピ4:8でパウロは平安に満ちた生涯を送るために私たちが思いを留めていなければならない8つの事柄を記しています。前回私たちはこのリストの最初の二つを見ましたが、今回は残りの6つを考えていきましょう。これらは私たちが思いを寄せなければならない事柄の完全なリストではありませんが、私たちを不安になったり、落胆したり、ストレスを抱えたりするときに、目を向けなければならない事柄であるのは間違いありません。

すべての正しいことに目を向ける

ここで「正しい」と訳されている言葉は、「義」という意味を持つ単語です、この単語は神の基準に対して完全な調和を保っていることを表現しています。そしてこの「義」こそがパウロが言う私たちが目を留めるべき「正しいこと」なのです。神の正しい基準は聖書にのみ記されています。ですから聖書が分からない者は「正しいこと」が何かを知ることができません。また不正を行っている者や行いたいと心から願っている者は平安を持つことができません。なぜなら彼らの思いは神の義から離れたところに向いているからです。主イエスは思いわずらってはならないという教えをする中で、様々な日常に必要に目を向けるのではなく「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と告げました(マタイ6:33)。私たちが思いを向けなければならないのはこの義であることを聖書は私たちに教えるのです。

すべての清いことに目を向ける

「清い」と訳されている単語は「聖」という言葉と深い関連のある言葉です。何によっても汚されていない、道徳的な純潔を表現しています。パウロは行動における純潔も、心の態度の純潔も含む、私たちの生涯すべてを包括した聖さの事に言及しているのです。このような「清さ」思って生きないことは、本来のクリスチャンが持つべき姿ではありません。なぜなら主に似た者となることを心から願い生きる信仰者は、主にお会いする日が必ず来ることを確信しているがゆえに、「キリストが清くあられるように、自分を清く[する]」からです(1ヨハネ3:3)。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(レビ19:2)とイスラエルに命じた神は、クリスチャンに対しても同じ事を求めて、ペテロを通して次のように告げられます。

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさい。(1ペテロ1:15)

「清いこと」に目を向けることがなければ、私たちはきよい者に変わっていくこともありません。あらゆる時に、主の完全な聖さを覚え、主が求める清さを身に着けていこうと思いを巡らせていることが、主の平安を味わって生きる生涯には不可欠なのです。

すべての愛すべきことに目を向ける

ここで使われる「愛すべきこと」と訳されている単語は、新約聖書でもここでしか使われていない珍しい単語ですが、この当時のギリシャ社会においては一般的に使われていた言葉でした。二つの部分で構成されるこの単語は「愛情を持って心が傾倒することがら」を指し、人々が愛すべき対象として捉えたあらゆるものを表現する意味の広い言葉です。パウロはこの言葉を使うことによって、私たちが人からも主からも「愛くるしい」と思われない様々な思いを取り除き、誰からも喜ばれる、愛されるようなことがらに目を留めるように教えているのです。ねたみ、そねみ、恨み、怒り、汚れたこと、また人生の問題などといった思いは、「愛すべき」ものではありません。そのようなものに焦点を当てるのではなく、誰からも(何よりも主から)喜ばれることに目を留める必要があるのです。

すべての評判の良いことに目を向ける

この「評判の良いこと」も新約聖書に一度しか登場しない単語です。この言葉は、良いことだと一般的に受け入れているがゆえに価値があると認識されている行動を表しています。「愛すべきこと」と同様にこの言葉も広い意味を持った言葉で、あらゆる評価の高い(評判の良い)ことがらが含まれています。私たちが不安の中にいるときに、私たちの言葉を聞いた人々は「なんとすばらしいことを考えているのでしょう」とは言わないでしょう。なぜならば私たちの心は「評判の良いこと」に目を向けているのではなく、むしろその反対にあるからです。私たちはどのようなときも神の真理に基づいて、良い、評価の高い事柄に思いを寄せていなければなりません。それが平安に生きる人の姿なのです。

そのほかのことに目を向ける

「評判の良いこと」と言った後に、パウロの表現が変わります。「そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば」と新改訳聖書は訳していますが、「徳」と訳されている言葉は道徳的卓越を、「賞賛に値すること」とは讃えられるにふさわしいことを指しています。多くの注解者はこの最後の部分をパウロのまとめの言葉と捉えていますが、それはこの二つの言葉がどの領域(もしくは分野)に私たちの思いがとどまっていなければならないのかを教えているからでしょう。真実なこと、正しいこと、清いことに目を向けるならば、神が道徳的にすばらしいとされる事柄に思いを留めることです。誉れのあること、愛すべきこと、評判の良いことに目を向けるならば、それは賞賛に値することに思いを留めているのです。ここにパウロが挙げたこと以外にも、すべて「そのようなことに」心を留めるならば、私たちは不安の中での生活から、平安に満ちた生涯を送る者へと変わっていくのです。

パウロが8節で記したことを一言でまとめるならば、「キリストのようになりなさい」となるかもしれません。事実この内容だけでなく、この後記されている9節の言葉はまさにこのことを私たちに教えます。私たちが何をどのように考えるのかによって、私たちの人生は大きく変わります。何が私たちの思いを支配し、何が心を満たすのかによって、私たちが平安に満ちた生涯を送るのか、不安に満ちた生涯を生きるのかが決まります。戦いは私たちの心で起こっているのです。そしてこの戦いに勝利するためには、「平和の君」である主イエスを知り、私たちの心を一新し、みことばに基づいて考え生きていく事が必要なのです。

聖書にはこのように生きた、私たちの模範となる人物が多く記されています。中でも次の言葉は私たちに大きな励ましと力を与えてくれるでしょう。その言葉はダニエル書3章に出てきます。ダニエルと三人の友人たちはネブカデネザル王から偶像礼拝を迫られます。それをしなければ燃える炉の中に投げ込むと宣告されました。そんな状況の中で、彼らは嘆くことなく、絶望することなく、聖書的にものを考えて平安のうちに問題と向き合います。そのときに語った言葉が次の言葉です。

もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(ダニエル3:17–18)

彼らは聖書の真理に即して考えたのです。死刑という問題が迫っている中で妥協するかしないかという選択が彼らにはありました。そこで彼らは聖書的に考えたのです。惨めになり、落胆し、怒り、不平不満に満ちて、真理に妥協するのではなく、彼らは問題を聖書の真理に基づいて検証し、みことばに沿って回答を出し、たとえ結果がどのようなものであったとしても、主は信頼できるお方であるという結論に基づいて行動を取ったのです。

彼らと同じように、私たちが抱える問題の中で正しい選択をすることが求められています。私たちも自分たちが通らなければならない「燃える火の炉」の中で、彼らと同じように喜びをもって、主に賛美を捧げながら、平安のうちに足を進めることができるのです。