「私たちの思いを服従させ、キリストが考えるように考えなさい」とパウロは告げます(2コリント10:5)。揺れ動く感情によって物事を判断するのではなく、聖書の真理に基づいてすべての事を評価するときに、どんな時でも平安をもって生きることができることを確信することができます。このことを告げたパウロは、次に具体的に私たちが考えるべき事、思いを寄せるべき事が何かを示してくれます。

正しい焦点を持つことが平安に満ちた生涯をもたらす

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。ピリピ4:8

ここに記されている事は、様々な状況の中で私たちが心を留めるべき事柄のリストです。パウロは平安を失いそうになるときにも聖書的に考えることができるように、目を向けるべき事柄を教えてくれます。8つのことが挙げられていますが、これらがすべてというわけではないでしょう。しかし、これらの事柄は私たちが平安に満ちた生涯を送るために心を留めていなければならないことなのです。

すべての真実なことに心を留める

神があらゆる真実の基準です。なぜなら神こそが「真実の神」だからです(詩篇31:5 )。そして神が語ったみことばこそが真理であると主イエスは告げます(ヨハネ17:17)。なぜなら「[神の]仰せはことごとくまこと」だからです(詩篇119:151)。それゆえにパウロは「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」(ローマ3:4)と宣言します。もし私たちが正しくないことに目を向けることをやめて、真実なことに心を留めるならば、私たちは平安に満ちた生涯を保つことができるのです。

もうこれまでに見てきたように、私たちが体験すること(起こっている事柄をどのように感じ、どのように理解するか)は、必ずしも何が真実なのかを判断するのに最適な判断基準ではありません。事実、私たちの感情や実際の行動の大半は起こっている事柄に対する間違った理解に基づくものです。私たちはよく「何一つ良いことがない」と感じますが、実際に良いことが一つも起こっていないことは非常にまれです。「希望が一切無い」と思うことがありますが、クリスチャンには常に希望があります。たとえどれだけ「悪い」と思えることが起こっていたとしても、良いことが何もないことも、希望が全くないこともあり得ません。置かれている状況から判断すればそのようにしか見えないかもしれませんが、どんなに悪いことが続く中でも、良いことは常に存在し、私たちの前には常に希望があるのです。いのちが与えられていること、寝るところがあること、食事ができること、服が与えられていること、家族があること、友人がいること、祈ることができること、神を知ることができることなど良いことを見いだそうと思えば、どんな状況の中でも良いことを探すことができます。たとえどんな状況に置かれていたとしても、いつか必ず主に似た者へと変えられて、永遠に神を賛美しながら過ごすことができるという希望をクリスチャンは持っています。人間関係の中で時に私たちは「あの人はいつも〇〇をする」と言ったり思ったりすることがありますが、これも真実なことではないのです。

「いつも」や「一切〜ない」と言った言葉はほとんどの場合正しい評価がなされていないことを言い表しています。もしこうした言葉を真実であるかのように使うならば、私たちの心の態度や状態はどんどん悪くなっていくでしょう。良いことが一切無いときに私たちは希望を持つことができなくなります。しかし「良いことがない」と言うことができる状態は、クリスチャンの生涯には存在しません。私たちがそう感じることは多々あるでしょう。しかし、クリスチャンには常に「神が最善を行っている」という希望があり、「神が良い方である」という真理が知らされているからです。私たちはこのような間違った考え方から離れ、パウロが告げるように、すべての真実なことに心を留めることを学ばなければならないのです。

すべての誉れあることに心を留める

「誉れ」という単語は「おののき」を起こさせることを表現する言葉です。ありとあらゆる雄大で、荘厳で、きよく、尊敬の念を抱かせる事柄に思いを寄せなさいと言うのです。パウロはこの同じことばを牧会書簡の中で執事や女性執事の特徴を表わすために使います。彼らが非常に高潔な尊敬に値する特徴をもっていることを表わしているのです。この言葉を使うことによってパウロは人々の前で尊敬に値すること、尊ばれること、人々がそれを見てすばらしいと思うような事柄に目を向けて行くように命じています。主に喜ばれる、人々が尊ぶ、良い、敬虔な事柄に思いを留めることが平安を保つために必要な事だと告げているのです。

不安の中にいるときに私たちが思うことは往々にして主に喜ばれる、人々が尊ぶ事柄ではありません。否定的で、決して尊ばれることのない思いに支配された態度や行動を私たちは捨て去らなければなりません。その代わりに、1テモテ3章やテトス1章に出てくる長老の条件にかなった人物が持つような特徴を、あらゆる時に示して生きることができるにはどうするべきなのかに思いを寄せていくのです。正しく考える事無く、性急に人生の状況に応答するとき、私たちは誉れのあることではなく、むしろ、蔑まれるべきことがらに心を留めて生きていくようになります。パウロはそんな私たちに、神にも人にも喜ばれ尊ばれることに心を留めて生活するように求めているのです。

次に続く