パウロはピリピ4:8で「心を留めなさい」という言葉を使うことを通して、私たちに「しっかり考える事」を要求します。それは私たちの生涯に起こるあらゆる事を聖書的視点に基づいて正しく評価することが、平安に満ちた生涯を生きるために必要不可欠なことだからです。前回の投稿にも記したように、「どのように考えるのか」が「どのように生きるのか」を決めます。それゆえにパウロはここで現在形の動詞を使って、継続的にしっかりと考える事を命じているのです。

正しく物事を考えることができなければ、起こる様々な出来事に正しい回答を見いだすことはできません。そしてこの「正しい思考」は神の真理に則した考え方です。絶対的な知者で、真理なる神が語られたみことばを通して、私たちはすべてのことを正しく評価することができるのです。しかし、私たちが生まれながらに持っている性質は、この「聖書的な思考」に基づいて考える性質ではありません。パウロはこのことを次のような言葉をもって明らかにしています。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 (ローマ1:28)

これは被造物を通してすべての人に明瞭に示されている神の存在を否定し、むなしい被造物を拝み続け、「神を知らない」と言って頑なな心を持ち続ける人々に対して、神がなされた一連の行為の一つとして記されている事です(参照:ローマ1:19–32)。この「むなしい思い」ですべての人は生きているがゆえに、パウロはこの世に義人が一人もいないことを告げ、神を求める者もいないことを宣言します(ローマ3:10–11)。このようなむなしい思考に基づいて生きるのが生まれながらの私たちの生き方なのです。ですからこのような状態から救われた人々に対してパウロは「心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)と命じます。この世と同じ思いで、同じ考え方をして、同調して生きるのではなく、神が何を考え、何をもめているのかに基づいて生きるために「心の一新」が必要だと言うのです [1]。

パウロはローマ8:5–6で次のように人の思い(考え方)を説明します。

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

救いを得ていない人は肉的なものであり、肉的なこと、この世の事柄に思いを留め、良くない思いに集中します。しかし、霊的な者、御霊に従う者たちは、御霊の事柄に思いを寄せます。古い肉的な思いは死をもたらせますが、御霊による思いというのは、いのちと平安を生み出すのです。

主に喜ばれることのない古い考え方を捨て去り、みことばの真理に沿って正しい思いをもって生きることがすべてのクリスチャンに求められています。自分たちの判断基準で物事を考えるのではなく、神が示した真理に基づいて物事を考える事こそが、この世での生涯を神に喜ばれながら生きるために必要な事なのです。しかし、残念ながら私たちは聖書的に考えることに慣れていません。あまりにも多くの時に聖書的に正しくない思考に基づいて、間違った結論を出しています。今までもそして今も、肉的な考え方をしてしまうゆえに、様々な不安に苛まれ、平安のない人生を過ごしてしまうのです。

イエスはこのことに関して、山上の説教の中で言及しています。ここで主はパウロと同じように「思い煩うな」と教え諭します。そしてこの話を聞いていた弟子たちに対して「信仰の薄い人たち」(マタイ6:30)と言って責めの言葉を投げかけます。なぜなら弟子たちが正しく自分の人生について考えることができなかったからです。主はマタイ6:25からこの「思い煩う」ということについて話し始めますが、26節で「空の鳥を見なさい。」と言って、「観察しなさい。よく見てご覧なさい。」と促します。この観察から正しい結論を導き出しなさいと話と言われるのです。同様に28節では「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。」と言います。よく見て、よく考えて、結論を出すようにここでも促すのです。

このように周りの出来事を良く吟味し、正しい結論を出すことができない人々に対して、イエスは「信仰の薄い人たち」と言われたのです。この直前に「ましてあなたがたに、 よくしてくださらないわけがありましょうか。」とありますが、これは論理的に野の花や空の鳥を見たときに出てくる結論についての言及です。「よく考えれば分かるの事を信頼できないとは、あなたは何と信仰の薄い者か」と責めているのです。

この節の解説をする中で、ロイド・ジョ ンズは次のような事を記します。

次に、信仰の薄い人がさまざまのことに支配され、打ちのめされたままになるのは、どうしてか。この質問に対する答えはこうだ。すなわち、「薄い信仰」の真の問題点は、ある意味で、考えようとしないことにある。言い替えると、信仰というものに対する私たちの考え方全体が、正しくなければならないのである。この箇所における主イエスの教えによれば、信仰とは、本来考えることである。 そして、信仰の薄い者の問題点は、まさに考えないことである。彼は環境に打ち倒されるままになっている。この世の生活の真のむずかしさは実にここにある。この世の生活は、手に棍棒を振りかざして私たちに襲いかかり、頭を打ちのめす。こうして私たちは、思考不能となり、無力と敗北に陥る。そこからのがれる道は、主によれば、考えることである。私たちはもっと時間を費やして、観察と推論に関する主の教訓を学ぶように努めなければならない。聖書は論理に満ちている。私たちは、信仰とは何か神秘的なものだなどと、かってに思い込んではならない。ひじかけいすにすわり込んで、不思議なことが起こるのをただ待っていてはならない。キリスト教信仰はそういうものではない。キリスト教信仰とは、本来考えることである。空の鳥を見て、鳥のことを考えよ。そして、そこから論理的結論を引き出せ。野の草を見よ。野の花を見よ。それらのものを考えてみよ。

ところが、大部分の人々の誤りは、考えようとしないことである。考えようとするかわりに、すわり込んだままで、私に何が起こるのだろう、私に何ができるだろう、などと聞いている。これは思考の欠如である。降伏であり、敗北である。主イエスはここで、考えよ、キリスト者らしい考え方で考えよと迫っている。思考こそまさに信仰の本質である。信仰とは、ご希望なら、次のように定義することもできる。信仰の人とは、すべてのことが、知的な意味において自分をなぐり倒し、打ちのめさないではおかないように見えるときでさえ、それでもなお考えようとがんばる人のことである。信仰の薄い人の問題点は、自分の思考力を自分で統率しないで、他の何ものかによって自分の思考力を統率されているところにあって、いわば、堂々巡りをしているのである。これが、思いわずらいの本質である。あなたが思いわずらいのゆえに、夜何時間も眠れなかった場合、その間あなたが何をしていたか、私はあてることができる。あなたは堂々巡りをしていたのである。あなたは、だれかの、あるいは何かのことに関する、いつもと同じあの古い出来事の細部を、念入りにほじくり返す。しかしそれは、考えることではない。思考の欠如である。考 えていないことである。それは、何かあなた以外のものがあなたの思考を統率し、支配していることを物語っているのである。それが、あの思いわずらいと呼ばれるみじめで、不幸な状態に、あなたを引っぱっていくのである。そこで「信仰の薄い者」とは、第二に、考えないことであると定義を下すことが許されよう。あるいは、この世の生活について明確に考えるかわりに、「この世の生活をしっかりと見つめ、その全貌を見つめる」かわりに、かえってこの世の生活のほうが、私たちの思考を支配するようになっていることである[2]。

私たちは考えていると言うのですが、その考えは今まで私たちがもっていた良くない思いによって導かれている考え方であり、聖書的な考え方ではありません。様々な困難が私たちを取り囲むとき、私たちは聖書の真理によって導かれた思考で回答をするのではなく、私たちの感情や生まれながらに持っている私たちの「よくない思い」によって回答をします。そして私たちが勝手に想像し、思いつく解決に向かってまっしぐらに走って行くのです。

詩篇の著者たちは頻繁に「神は砦です」や「神は私の岩です」と告白します。彼らは主がご自身の民を守ってくださることを教え、それを読む私たちは「その通りです。」とうなずきます。しかし、それを知っていると言いながら、神のところへ行くことを躊躇し「自分で掘った穴に隠れる方がよい」と言って真理に基づく解決に進んでいくことをしないのです。

私たちが不安であり平安に満たされないのはまさにこのためなのです。考え方が間違っているのです。私たちには心の一新が必要です。私たちは神が考えていることに沿って、それに倣って考えることを学ばなければならないのです。パウロは「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:2)と言います。 また「すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」るようにと命じます(2コリント10:5)。ここで使われている「はかりごと」という言葉も「思い」「思考」と訳すことができる言葉が使われています。私たちは問題に直面するときに様々な対応をします。いろいろな感情的な思いが湧き上がってきます。今までの肉的な思いが私たちを支配しようとします。そのとき、「あなたの思いを服従させなさい。とりこにしなさい。」とパウロは言うのです。そして「キリストが考えているように考えなさい」と言うのです。

これまで私たちは物事を決断するときに、感情や常識といわれる事柄によって自分の思考を支配させてきました。しかし私たちは何が聖書的に正しいことなのかを考えなければなりません。聖書の真理からすべてのことを評価をしなければいけないのです。正しく考えることを学ばなければなりません。それによって初めて、あらゆる状況の中で、平安に満たされる生涯を送るために必要な事柄を正しく見いだすことができるようになるのです。

 


[1] ここで使われている「心」という単語は1:28で「思い」と訳されている単語と同じものが使われています。つまりパウロは私たちの思考を今までとは全く違うものに変えなさいと言っているのです。

[2] D. M. Lloyd-Jones, Studies in the Sermon on the Mount vol. 2 (Leicester, Inter-Versity Press, 1960)、井戸垣彰訳 「山上の説教 下巻」聖書図書刊行会(1988年)、199-201。