一時的な喜びや満足を持つことは誰もが経験することですが、継続的な喜びや満足を得ていると断言する人はあまり多くないでしょう。どのような状況にあっても「私は不安がありません」と宣言することができる人は非常にまれかもしれません。しかし、神が与える平安は私たちの心を守るものであり、それは周りの状況に支配されることなく与えられるものです。ですから、クリスチャンはこのような継続的な喜びや平安を自らの生涯に見いだすことができるはずです。
ではなぜ多くのクリスチャンたちが一時的なものではなく継続的な平安に支配されて生きられていないのでしょう。その秘密がパウロが記すピリピ4:8–9にあります。単に私たちが必要条件を満たし、約束を確信するだけでは神の与える平安を継続して持つことはできないのです。私たちの日々の生活が、平安を与えるという神の約束を実際に生きるものでなければならないとパウロは告げます。彼はこのように綴ります。

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

パウロは「最後に」という言葉を使って、この重要なセクションをまとめようとしています。ここにはこの手紙に出てくる最後の二つの命令が記されています。それは、私たちがどのように平安に満ちた生涯を送ることができるのか、そして、それを継続的に持って行くために何をしなければならないのかを明瞭にする命令です。これらの命令を通して、パウロは私たちに平安に満ちた生涯を継続的に送るための秘訣を伝授しているのです。
どのようにすれば一時的ではなく継続的に、ずっとこれから私たちが主によって召されるその日まで、キリストが与えてくださるこの平安を心に満ち溢れさせて生きて行くことができるのでしょう。パウロの二つの命令は私たちの思考と行動に関する命令です。ここから私たちが継続的に平安に満ちた生涯を送るための秘訣を学んでしきましょう。

平安に満ちた生涯を送るための秘訣

正しく考えることが平安に満ちた生涯をもたらす

欧米には次のような格言があります。

思いを蒔けば、行動が刈り取られ、
行動を蒔けば、習慣が刈り取られる。
習慣を蒔けば、特徴が刈り取られ、
特徴を蒔けば、運命が刈り取られる。

この格言は私たちの思考と私たちの生涯の密接な関係を非常に端的に表しています。何を考えるのかによってどのような行動を取るのかが決まり、そのような行動を繰り返すことでそれが習慣となり、その習慣は私たちがどのような人物なのかという特徴を生み出し、その特徴のゆえに私たちがどのような生涯を送るのかが決まるというのです。
私たちが思っている以上に私たちが戦うべき戦場は私たちの「思い」にあります。「思い」(もしくは「心」)において、実は私たちの人生を方向付ける戦いが起こっているのです。それゆえにパウロは「正しい考え方をしなさい」と命じます。正しく物事を考えることができなければ、平安に満ちた生涯が約束されていても、それを自らのものとして生きることができないのです。
パウロがここで最初に命じる命令は「心を留めなさい」というものです。ここで使われている動詞は、直訳すると「考える」「熟考する」「評価する」または「計算する」と訳すことができる動詞で、なんとなくものを考えるというのではなく、一生懸命集中して物事を熟慮(判断)することを表現する単語です。つまりここでパウロは私たちに「しっかり考えなさい」と命じているのです。「理路整然と論理的に起こる出来事を考え処理するように」とパウロは告げます。そして、この動詞は継続性を現す現在形の動詞が使われています。「しっかりと考え続けなさい」と言うのです。
私たちが様々な問題にぶつかるときに最初に回答を出そうとするのは「思考」ではなく「感情」でしょう。起こった事柄を正しく判断しようとする「思考」が働く前に、「私はこう感じる」または「こう思う」といった感情が私たちに行動を取らせようとします。正しい回答を持っていないにもかかわらず、質問されたときに勢いで「ハイハイ」と手を挙げてしまう子どもたちのように、感情は起こっていることの持つ真の意味を理解せずに私たちに行動を促します。この感情によって行動を取るとき、私たちは主の前に間違ったことを選択するのです。
パウロがここで「考えなさい」と命じるのは、「どのように考えるのか」が「どのように生きるのか」を決定づけるからです。箴言23:7には次のように記されています。

そは、その心に思うごとく、その人となりもまた、しかればなり。(文語訳聖書)[1]

箴言の著者は「あなたが心に思っているのと同じように、あなたの人としての特徴や行ないもまたそのようになる」と告げます。どう考えるのかが人となりを決めるのだというのです。私たちは心にある思い、考えがどれほど重要であるかを理解しておかなければなりません。主イエスは心の中の思いが私たちの行動を決める事をこう言って教えました。
しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるからです。(マタイ15:16–17)

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。(マタイ12:34–35)

「正しく物を考える」ということは、「聖書的に考える」と言うことができるでしょう。この聖書的に考えることができるようになることこそ、私たちが平安に満ちた生涯を生き続けて行くために必要な事なのです。次の投稿ではもう少し詳しくこの事について考えていきます。
 


[1] この箇所は原文が難解で、二通りの訳がなされています。日本語の聖書では現在一般的に新改訳などの訳に見られる「彼は、心のうちでは勘定ずくだから」が採用されていますが、文語訳は上記のように訳しています(その他多くの英語訳もこのように訳している)。