全く予測することができない私たちの生涯に起こる様々な事柄、そのようなことを考えると、私たちはもしかすると、不安のない平安に満ちた生涯を過ごすことは不可能ではないかと考えるかもしれません。私たちの周りには、数限りない心を苛む事柄があります。それらによって私たちは不安に思い、心配し、苛立ちを覚え、時には憤りに心がいっぱいになって生きることがあるのです。けれどもこれまで学んできたように、聖書は次のようにはっきりと命じています。「思い煩ってはいけない」と。それだけでなく私たちが神から平安が与えられるという約束を受けていることを教えているのです。この平安に満ちた生涯を送るために、みことばは私たちにいくつかのことを求めていました。そこには私たちが持っていなければいけない三つの条件があったのです。

1.  平安に満ちた生涯を送るための条件

1-1.  聖書的な喜びが平安に満ちた生涯を生み出す

聖書的喜びとは私たちの内側にある深い確信です。その確信は、神が私たちクリスチャンの最善のために、また、ご自身の栄光のために、私たちの周りで起こるあらゆることを支配しておられるという確信であり、この事実を理解しているがゆえに、「あらゆることはどのような状況の中にあっても万全である」という確信でした。この確信が私たちに聖書的な喜びをもたらすのです。私たちの神が知らずに起こることは何一つありません。私たちの神が計画せずに起こることは何一つないのです。あらゆる事が私たちの神がご自身の栄光のために、また、私たちの最善のためになされています。そのことを私たちは深く確信しているゆえに、どのような状況が襲ってきても私たちは「すべては万全である」と宣言できるのです。聖書的な喜びとは感情的な、状況によって左右されるものではありません。聖書的喜びは霊的事実に基づいた幸福感のことなのです。

1-2.  耐え忍ぶ心が平安に満ちた生涯を生み出す

耐え忍ぶ心というのは、単に、私たちの生涯に困難をもたらす状況や人々をじっと我慢して堪えるということだけではありません。そのような困難をもたらす人々に対して私たちが愛の行為を実践して行くことです。パウロが私たちに命じたのは、その寛容な心をすべての人に知らせることでした。私たちが人々に対して愛の行為を実践して行くことによって、初めて目に見えるものとして知られていくのです。このように私たちが様々な状況の中で、人間関係において、争いを起こすのではなくて平和を作り出す者となることこそが、パウロが教える「寛容な心」を持つことだったのです。このような生き方をしていくときに、私たちの心には平安がやって来るのです。

1-3.  正しい応答が平安に満ちた生涯を生み出す

1-3-1.  間違った応答は平安を生み出さない
私たちは自分の心を二つに分けてしまう不必要で不適当な心配をするべきではありません。人生の様々な状況の中で、そこにある問題にしか目が向かなくなり、完全なる神に対する信頼を失ってしまうときに、私たちは思い煩うのです。「どうすれば主に喜ばれることか」と心配るのではなく、神以外のことに思いがいってしまうがゆえに、神が求めていることが何かということを思い巡らすのではなく、地上の事柄に心を配りそれに思いを寄せ「心が分かれる」ことが間違った応答であり、「してはならない」と命じられていることでした。

1-3-2.  正しい応答は平安を生み出す

神への信頼を忘れ、地上の事柄に思いを寄せるのではなく、感謝をもって捧げる祈りと願いによって神に私たちの願いを知っていただくことこそが正しい応答でした。6節の命令を表現するために使われている単語は「知っていただく」または「知られる」という受動態の動詞です。私たちの祈りは「神に知らせる」ためのものではありません。なぜなら神は私たちが祈る前にもうすでに私たちの願いが何なのかを知っておられるからです。ここで焦点になっていることは、神に私たちの願いを知ってもらうことではなく、神の御前に願いを携えて出て行くことができる私たちの特権にあります。「助けを与えることができる方の前に立つことができることを忘れてはならない」とパウロは命じています。私たちがどのような問題を抱えていたとしても、問題よりも遙かに偉大な神が私たちの願いに耳を傾け、ご自身の最善を私たちのためになしてくださっているという確信を私たちは持っているのです。祈りは私たちを神の御前に連れ出します。そこで私たちは神の素晴らしさ、偉大さ、賢さ、そして愛の深さをますます知るようになるのです。

2.  平安に満ちた生涯を送るための約束

神の計画が完全であることを知っているゆえに、神が良い方であり、知恵に満ち、完全な力をもって支配されているということを私たちが信頼しているゆえに、問題の中にあっても、困難の中にあっても、私たちはこの神の前に感謝しつつ祈ることができます。このように祈るとき、問題から目をそらして神に向かって進んで行くことができることをパウロは教えました。そのような生涯を歩む者に神は平安を約束してくださっています。

平安は時々折々に作り出されるものではありません。もうすでに与えられているからです。私たちが神との和解を得たときに、 私たちは神との間に平安が与えられました。この神との和解こそが私たちが平安を持つことができる根拠なのです。時に私たちの生涯には、私たちが「よい」と思うことができないような事柄が起こりますが、神との和解を持ち、神の計画のままに神の最善がなされていることを理解しているクリスチャンは、どのような状況の中にあっても「人のすべての考えにまさる神の平安」が私たちを守ってくれることを確信することができます。それこそがまさに神の約束なのです。

このことを踏まえて、私たちは次の二つの質問にどう答えるのかを考えなければなりません。一つは、「神を十分に信頼しているゆえに、自分の人生に起こるあらゆる事柄が、神が私に求めている目的を達成するために必要なことであり、それを通して私はキリストに似た者になることができるということを心から確信しているか」です。二つ目は「神の目的が自分の生涯に達成されることを願っているか」ということです。このピリピ書の文脈を見るとき、地上の生涯で持っていたあらゆる誇り、価値があると考えていたあらゆることを、ちりあくたであるとパウロが思っていたことを三章で読むことができます。パウロは次のように宣言しています。

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主である キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:7–8b)

パウロはなぜこのように考えたのでしょう。それは新しい、正しい目的が彼に与えられていることを知ったからです。それはいったい何でしょう。パウロは次のように続けます。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:8c–11)

「私はキリストと同じようになりたい」とパウロは訴えます。それを他の何よりも強く求めていたゆえに「私はこれまで価値があると思っていたものを全て捨てます。私が一心に求めることは神の目的が私の生涯に行なわれることです」とパウロは宣言したのです。

私たちは平安に満ちた生涯を送ることができます。私たちが必要な条件を兼ね備え、そして、神からの約束である平安を実際に経験して生きることはクリスチャンの持つ大きな祝福であり特権なのです。しかし、パウロの助言は条件と約束を提示するだけでは終わりません。パウロはこの神だけが与えることができる平安が継続的に私たちの生涯に現われることができるために、何をしなければいけないのかということも教えてくれるのです。

平安に満ちた生涯を送るための実践をパウロは8節から記していきます。一時的ではなく継続的に、ずっとこれから私たちが主にお目にかかるその日まで、キリストが与えてくださるこの平安を心に満ち溢れさせて生きて行くために、私たちは何をしなければいけないのでしょう。次回から私たちはこのことを考えていきたいと思います。