神は私たちに平安を与えることを約束しています。私たちはこのことをピリピ4:7から詳しく考えて来ました。この約束を確かに受けるために私たちはいくつかの事柄をしっかりと理解しておく必要がありました。それらは平安が与えられる理由を理解することであり、平安の源がどこにあるのかを理解することであり、平安の性質がどのようなものなのかを理解することでした。最後にもう一つ私たちが理解しなければならないことをこの節は教えてくれています。それは平安の効果がなんであるのかを理解することです。

平安の効果を理解する

パウロは7節の最後に「あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と記します。ここでパウロは「守る」という動詞を使いますが、これは軍事用語として一般的に用いられた言葉で、兵士が町を守るために配置されていることを指して使われていました [1]。町の周りに配置された兵士たちが敵の攻撃から町を守っているのと同じように、「神の平安」が守りを与えることをパウロはここで告げているのです。

ピリピの教会に属していた人たちは、ここでパウロが告げようとしていることを良く理解したことでしょう。なぜなら彼らが住んでいたこの町にも同じように兵士たちが配置され町を守っていたからです。常にそこにいて、私たちを不安へと陥れる様々な事柄に対して、神の平安が守りを与え、監視してくれていることをパウロは告げるのです。

しかし、神の平安はいったい何を守ってくれるのでしょう。それが「あなたがたの心と思い」です。「心と思い」という表現は人の内面すべてを言い表すものですが、パウロの原文での表現を見ると特定の区分をしている様子を考察することができます [2]。心は意志、思い、感情を司る人生の作戦司令室であり、思いは私たちの考えや思考を作り出す機能、場所のことを指しています。私たちの周りで起こる出来事に対して、心と思いは様々な反応を示します。「感謝をもって捧げる祈りと願い」によって私たちが神への信頼を確かなものとするときに、神の平安は私たちの内面を守り、不安や恐れに支配されることがないように見張ってくれていることをパウロはここで告げるのです。

この守りがある限り、私たちは不安に支配されることはありません。人の知識を遙かに超えたすばらしい神の平安が、私たちが不安になることがないように守ってくださるのです。しかし、この守りはすべての人に与えられている訳ではありません。この守りが与えらるのは「キリスト・イエスにあって」のみなのです。この表現は範囲を現しています。つまりキリストのうちにある者だけがこの神の平安による守りを体験することができるのです。

キリストの死と復活によって神との和解が成立した者たちだけが、キリストとの結合のゆえに平安の約束を受けることができる者たちです。神との和解によって、主に裁かれる敵から主に愛される家族にされたクリスチャンは、あらゆることにおいて最善をなされる神の御業に信頼し、どのような状況の中でも希望をもって生きることができるのです。平安は私たちの心と思いを守ります。どんな時でも神に信頼することができることを思い起こさせてくれます。これはまさにクリスチャンの大きな特権であり、祝福なのです。

神は私たちに平安を与えてくださいます。人生のどのような状況の中でもこの平安は私たちのものなのです。確かに私たちの生涯には困難があります。問題があり、苦しみがあります。そんなときに私たちは不安に満たされ、平安を失ってしまうことがあるかもしれません。しかし、もし私たちが平安を持つことができる理由、平安の源、平安の性質、そして平安の効果をしっかりと思い出すならば、不安に捉えられて、そこから抜け出せない生涯を送らなくなるでしょう。不安や恐れは、神への感謝と賛美と賞賛を妨げることはできません。どんな危機的な状況も私たちの心を守る神の平安以上に力強いことはないのです。

神のみこころが私たちの生涯になされるとき、私たちは最も良い所を進んでいることを忘れてはいけません。私たちの生涯が聖書的な喜びと耐え忍ぶ心と正しい応答に特徴付けられるとき、私たちが神がすでに示しておられる啓示されているみこころに沿って生きているとき、私たちは神が最善とされる道を、最善とされる状況の中で歩んでいることに確信を持つことができるのです。

 


[1] この動詞は新約聖書の中で4回使われています。2コリント11:32ではその字義的な意味をはっきりと見ることができます。新改訳聖書はここで同じ動詞を「監視する」と訳していますが、パウロを捕らえるためにダマスコの王の代官が兵士を町の周りに配置したことを見て取ることができます。

[2] 原文では「心」と「思い」と訳されているそれぞれの単語に定冠詞があるだけでなく、どちらにも「あなたがたの」という所有代名詞が付けられています。つまり直訳すると「あなたがたの心とあなた方の思い」となります。確かにこれら二つの単語は意味が重なる部分が多いのですが、こうした文法的特徴からこの箇所におけるパウロの意図は、心(感情、意志、思考)と思い(ここでは思考というよりも、思いを作り出す機能について言及しているでしょう [参照: Peter T. O’Brien, The Epistle to the Philippians A commentary on the Greek Text, 498])の両方を守る神の平安の働きを伝えようとしていると考えるべきでしょう。しかし、これらの二つの表現が同時に使われることによって、確かに内面的な部分すべてが守りの中にあることを見ることができます。