神は私たちに平安を与える約束をしています。この約束は空約束ではなく、確かな約束です。クリスチャンは、神が常にご自身の栄光とご自身の民の最善のために働きをなされることを知っています。ですから、たとえ自分の願っていることが起こらなくても、自分が望んでいない状況に置かれていたとしても、神の最善で最良の計画がなされていることを確信するクリスチャンは、この神の計画が行われ、神の目的が全うされていることに対する確信のゆえに、平安を持つことができるのです。そしてこの神は「平和の神」であり、この方こそが平安の源であることを知っているだけでなく、神との和解を得ているがゆえに、主は惜しみなくこの平安を私たちに備えてくださるのです。
平安の約束に関して私たちは、この平安が与えられる理由平安の源を考えて来ました。今回私たちは7節の残りの部分から平安の性質について考えます。これを正しく理解するとき、私たちはますます大きな確信をもって、平安を与えるという神の約束に確信を持つようになるでしょう。

平安の性質を理解する

神が与えようとしている平安とはどのようなものなのでしょう。これまで見てきたように、神が与える平安は神の平安であり、私たちが神との関係を持つ前に考えていた平安とは異質のものです。ですからこの平安がどのようなものなのかを知ることは、私たちが平安を考える上で理解すべき大切なことでしょう。パウロはこの神の平安を説明するに当たって、非常に興味深い表現を使います。それは「人のすべての考えにまさる」というものです。つまり、私たちが神から与えられる平安は私たちに理解できないものだと言っているのです。ここで「まさる」と訳されている言葉はピリピ3:8で「すばらしさ」と訳されていることばで、この平安がいかに人の理解を遙かに超えたものであるのかを表現しています。
私たちの問題は、今現在起こっている事柄以上のことに目を向けることができないということです。私たちの視野は狭いのです。 全体像を掴むことができないがゆえに、今ここで起こっている以上のことを知ることはできません。それで私たちの心は不安に満ちるのです。分からないから、見えないから、知ることができないから不安になります。しかしパウロは私たちに教えことは、私たちが知り得ない全体像を神が支配し、神が知っておられるということです。神の支配から逃れるものは何一つありません。たとえ私たちがどれほど、自分の人生について、自分の置かれている状況について、自分が抱えている問題について、人間関係について、また自分自身について知っていると言ったとしても、その知識というのは神と比べたなら余りにも小さいものです。 だから、どれだけこの世で力をもっている人でも問題を抱えているのです。彼らに問題がなくなることはありません。彼らの支配力は神の支配と比較にもならないものだからです。
私たちには支配できない、手に負えない事柄があります。しかし神には支配できないことも手に負えないこともありません。神の計画されることは常に完全であり、神のなさることは常に完璧であり、神が備えてくださる道は常に最良の道なのです。この神に対して私たちは自らの不安な心をさらけ出し、感謝をもって祈り願います。私たちが分からないことでも神は良く知っていて、私たちが理解に苦しむことでも神は目的をもって行っているからです。神が備えている道は、私たちが考えるよりもはるかにすばらしいものです。そして私たちはその方を信頼することができるです。だから私たちの祈りには平安が伴うのです。私たちに平安が与えられるのは私たちの願いが叶うからではありません。また、私たちの祈りが聞かれるからでもありません。平安が与えられるのは応えられた祈りがあるからではなく、応えてくださる神がいるからです。私たちの平安は「神が誰であるのか」ということにかかっているのです。

自分にとってふさわしくないと思う状況に陥ったとき、そこから逃れたいと思うような困難に満ちた状況が起こったとき、私たちは「平安を得るには、どこの状況が取り除かれなければならない」と考えます。そして躍起になって何とか起こっている状況を取り除こうと時間を費やすのです。しかし本当に知らなければいけないことは、どのようにそれを取り除くことができるかではなく、その状況の中でどのように、完全で聖く、支配者であられ、全能の力をもって、愛をもって私たちを導かれる神が、ご自身の目的を私たちのために達成しようとしておられることを信頼することです。信頼できない理由はどこにもありません。神はあらゆることを用いて私たちの益としてくださると宣言しています。これは単なる慰めの言葉ではありません。聞こえのいい言葉でも、空っぽの約束ではないのです。神の確約です。だから「この状況の中であなたの最善がなされているその信頼を私に与えてくださいです」とクリスチャンは言えるのです。
多くの人たちが実際に不安を抱えて苦しんでいます。けれども、それは彼らが置かれている状況が余りにも困難でそれを乗り切ることができないからではないのです。苦しみを覚え満足を得ることができないで人生を送っているのも、満足を得ることが不可能な状況にあるからではありません。そのような問 題があるのは、私たちが神に対する信頼よりも、私たちが抱える不安や不満足のほうが大きくなっているからです。
苦しい状態に置かれたときは苦しいのです。先行きが分からなければ不安になります。それゆえに苦しみを覚えたり不安になったりすることが悪だと言っているのではありません。しかし、問題はそれをどうするのかということなのです。不安になるなということではありません(事実この箇所でパウロは思い煩うことがあるならば祈りなさいと教えています)。問題はその不安を神のもとに持っていって神に委ねることをしないことなのです。
親からはぐれてしまった子どもは不安の中で困惑し、泣き叫ぶでしょう。しかし、ひとたび親の姿を見るならば、その不安に覆われた心は安堵感に満たされるのです。同じように私たちが父なる神の姿を自分たちの置かれている状況の中で見ることができないときに、私たちは不安になります。しかし、神はそこにいないのでしょうか。神は偏在な方で、私たちを見捨てない方ではないのでしょうか。神は私たちの心を知り、私たちの必要を知り、私たちの最善を知って、私たちに最もふさわしいことをなしているのではないのでしょうか。御子を私たちのために与えてくださることを通して、もうすでに神はご自身の愛の深さを証明しておられないのでしょうか。
神が与える平安は、私たちの理解を遙かに超えたものです。なぜなら「このような状況で平安な心を保つことは不可能である」という中で、確かに平安を持つことができるからです。クリスチャンは世の人から不思議がられる人でしょう。どのような状況でも「大丈夫」と言うことができ、希望が見えないときでも神に希望を見いだし、不安に襲われるような場面でも主が与えてくださる平安を得ることができるからです。神の平安は人の力によってもたらされるものではなく、人の思いを遙かに超えた神が与える平安なのです。