主は常にご自身の栄光とご自身の民の最善のためにあらゆる事柄を行っています。私たちはこの神の計画のすばらしさを充分に理解していないので、最善が行われていないと考え、神のなしていることに疑念を抱きます。自分の思っている良いことの方が主の計画よりも良いものであると勘違いして、置かれている状況に対して不満を抱き、満足を得ることができずに生活するのです。しかし、私たちはパウロの言葉に耳を傾け、神の計画のすばらしさをどのような状況の中にあっても認めることを学ばなければなりません。パウロは次のように告げます。

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

私たちは主権者であり、良い方である神に信頼を置かなければなりません。この信頼を持つときに、私たちは神が与えると約束する平安を確信することができるのです。この約束には理由があります。神が常に最善を行われる方なので、私たちはどのような状況の中にあっても、平安に満ちた生涯を送ることができるのです。

約束を確信することができる根拠はこれだけではありません。ピリピ4:7でパウロは具体的にどこからこの平安が来るのかを教えることを通して、平安に満ちた生涯を送るため理解しなければならないことを教えてくれます。それは平安の源がどこにあるのかということです。

平安の源を理解する

パウロは「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・・」と言ってこの平安の源が神にあることを告げています。神がこのように平安を人々に与えることができるのは、この方が「平和の神」(9節)だからです [1]。神は完全な力と知恵をもってすべてを支配しておられる絶対的な支配者です。それゆえに神の計画以外のことが起こることはありません。別の言い方をするならば、神は驚くことのない方です。あらゆる分野において神よりも偉大なものは存在しないので、神には不安のかけらもありません。常に完全な平安をもっておられるのです。

私たちはこの単純な、しかし非常に重要な真実を見逃してはなりません。真の平安は神にしか見いだすことができないのです。この世は様々な形で私たちに平安を得る方法を提示します。必要だと思う物品を買いそろえることや、将来のための蓄えを持つこと、種々の薬やリラクセーション法などを用いることによって平安を手に入れることができるかのように教えます。政治的な安定や経済的な安定がまるで平安を得るための秘訣であるかのように訴えます。しかし、この世が指し示す平安は一時的なものに過ぎず、決して真の平安を与えることはできません。なぜならこの平安は神しかもっていないものであり、その神から与えられなければ得ることのできないものだからです。

この事実はとても大切なことを明らかにします。それは「神との正しい関係を持っていないならば、この平安は与えられない」ということです。神と敵対しているならば、神からの平安を得ることは決してできません。つまり、救われていない者には平安はないのです。イザヤは「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」(イザヤ26:3)と告げます。神は「全き平安」を神を愛し、信頼している人に与えるのです。

神からの怒りを受けるにふさわしい者である私たち人間は、神の怒りを引き起こす罪の問題を解決しない限り、真の平安を得ることはできません。一時的な平安を様々な方法で求めたとしても、永遠の裁きがあることを知っているがゆえに [2] 、常にそこには不安と恐れがあるのです。しかし、イエス・キリストによって神との和解を得た者は、平和の神からあらゆる時に溢れんばかりに平安を受けることができるのです。事実、平安はクリスチャンがふさわしい生涯を生きるときに必ず持つことができるものです。なぜなら、平安は御霊によって歩むクリスチャンが生み出す御霊の実だからです(ガラテヤ5:22)。

不安の中にいるときに、私たちはどこに平安を見いだすことができるのかを思い出さなければなりません。平安は神だけが与えることができるものです。それゆえに、私たちは神の下に向かわなければならないのです。主に喜ばれる歩みを、主が求めるように実践していくとき、私たちは神が与えてくださるという平安を確かに実感して生きるようになります。イエスは弟子たちに次のように告げられました。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

主の平安が私たちに約束されています。主だけがもっている真の平安が約束されているのです。むなしい一時的な平安を求めるのではなく、主が与えてくださる平安を私たちは求めなければならないのです。

 


[1] 新約聖書にはこの表現が全部で5回使われています(ローマ15:33; 16:20; ピリピ4:9; 1テサロニケ5:23; ヘブル13:20)。日本語では「平和」とと「平安」という二つの違った言葉で訳されていますが、原文ではどちらも同じ単語が使われています。

[2] 信仰を持たない人物も、神がいることを知っているのと同じように(ローマ1:18–20)、主の前に裁かれることも理解しています。彼らは不義な者であることを理解しながら、その罪の裁きを考えないように生きているのです。