人生に起こる様々な出来事の中で、私たちが主の前に正しい応答をするならば、そこには神が与えてくださる平安があることを聖書は教えています。この世の事柄にだけ目を向け、眼前にある問題に捕らえられ、思い煩うことは、「間違った応答である」とパウロは告げます。パウロはこうした間違った応答をするのではなく、「あなたがたの願い事を主に知っていただきなさい」と勧めます。すべてのことを支配しておられる絶対的な主権者である神との個人的な関係を持っているので、クリスチャンはこの方の御前に大胆に出て行くことができます。そして主は、私たちにとって最善なことをなさる方なので、その方の前で安心を得ることができるのです。
どのように正しく応答するのか
前回の投稿では、私たちに与えられているこの特権について記しましたが、今回は「私たちの願い事を主に知っていただく」方法について考えていきましょう。パウロはそのことを具体的に6節で教えてくれています。パウロは次のように告げます。

感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

ここでパウロは三つの言葉を使って、私たちの願い事をどのように主に知っていただくかを教えています。ここで注意しなければならないのは、「祈る」という一言でこれら三つの言葉をまとめてしまわないようにすることです。パウロは意図的にこれら三つの言葉を使っています。それぞれが意味することがあり、それらを正しく理解することを通して、具体的にどのように主に願い事を知っていただくべきなのかが教えられているのです。
日本語訳では語順が異なりますが、原文でパウロが最初に使う言葉は「祈り」です。この言葉は神に対する祈りを表す最も一般的な言葉で、あらゆる側面の祈りを示す非常に包括的な表現です。「神を呼び求める」と定義されることもあるこの単語を用いて、パウロはまず祈ること全般が必要であることを教えています。
二番目に出てくる単語は「願い」です。この言葉は最初の「祈り」よりも限定的な意味を持っていて「祈りの具体的な内容」と考えることができます。最初の「祈り」という言葉が神に対する祈りを表す時にのみ使われているのに対して、「願い」は人に何かをお願いするときにも用いられることがある単語でした。元来、この単語は「欠如」を言い表す単語だったのですが、新約聖書の時代には欠如のゆえにもたらされる「必要」「願望」「要求」「嘆願」などを表すようになりました。つまり、この言葉は「特定の必要によってもたらされる具体的な願い」を指しています。このような願いをする人物は、置かれている状況の中にある具体的な必要のゆえに、何を主に求めるのかをはっきりと理解しているのです。
これら二つの言葉が重ねて使われることによって、祈ることの必要性が強調されています。私たちは包括的な意味での祈り(告白や賛美やとりなしなどの広い意味での祈り)をし続けることが必要であり、同時に具体的な願いをその祈りの中でなすべきであることが言われているのです。私たちは特定の状況の中で、具体的な必要を持っています。こうした具体的な必要があるがゆえに不安になり、思い煩うのです。解決しなければならない問題があり、なければ困ると思う必要が私たちの周りに存在します。ただ、そのような事柄自体に焦点を当てるのではなく、必要に基づいて主の前に具体的に願い求めるようにパウロは勧めているのです。「主よ、私はこのことについてあなたの助けが必要です」と祈るのです。
多くのクリスチャンは「私はそうやって祈ってきましたが、私には平安が与えられることはありませんでした」と言うかもしれません。確かに私たちは必要があるときに、主の前に具体的に祈り求めることをします。しかし「平安をもたらす祈りはただ自分の願い事を神に告げる祈り」ではありません。パウロは最初の二つの言葉で祈りの方法を具体的に示しています。ただ、パウロの説明はここで終わっていません。三番目の言葉が付け加えられています。そして、ここでパウロは方法ではなく、「方法に伴うべき態度」を教えています。それが「感謝」なのです。
パウロは「祈り願い求める時に、私たちは感謝の態度をもって祈らなければならない」と教えています。ここに私たちの問題があります。これこそが、平安に満ちた生涯を送ることができない大きな原因の一つなのではないでしょうか。不安の中で祈る自分の態度を吟味するときに、どれだけの人が「私は感謝をもって主に祈っています」と断言することができるでしょう。困難な状況の中で私たちに欠落する特徴は「感謝」です。しかし、パウロは感謝がなければならないと告げるのです。
確かに「感謝できない」と考える理由はたくさんあるかもしれませんが、パウロが「感謝を持って」祈るように教えることは理にかなっています。私たちはよく「こんな状況の中で感謝することはできません」といったつぶやきを耳にしたり、口にしたりします。しかし、たとえどれほど大きな困難の中にあっても、どれほど苦しい状況があったとしても、クリスチャンにとって神に感謝をすることができない時は、一瞬たりとも存在しないことを忘れてはいけません。クリスチャンであるならば、どんな時でも神に感謝することができるのです。
私たちは神がこれまでに示してくださった「良さ(慈しみ深さ)」のゆえに主に感謝することができます。神が私たちを救ってくださったことのゆえに、常に感謝をすることができます。このことだけでも永遠に主に対する感謝を持つ理由ですが、救い以外にも神は私たちにすばらしい働きを多くなしてくださってきたことを私たちは知っています。
また私たちは神が今なしてくださっている「良さ(慈しみ深さ)」のゆえに主に感謝することができます。確かに苦しみや困難の中で「神の良さ」を実感することはないかもしれませんが、私たちが乗り越えられない苦難を与えることはなさいません(1コリント10:31)。しかも、起こるありとあらゆることを働かせて、私たちの益としてくださる方です(ローマ8:28)。今ある苦難を通して私たちを完全な者とし、神の御前で不動の者としてくださるのです(1ペテロ5:10)。神は意地悪な方でしょうか。神が私たちを憎んでいるから私たちに苦しみが与えられるのでしょうか。私たちが受ける事柄は私たちに必要なことかそうでないかをいったい誰が決めるのでしょう。私たちがほしくないと思うものはすべて私たちに必要のないものなのでしょうか。神からの祝福は様々な姿形でやってきます。誰に何が必要なのかをすべて知っておられる方が、私たちに必要なときに、必要な形でふさわしいことをなしてくださっているのです。時に私たちにはなぜ神がそのことをなすのかが分からないことが起こります。苦しく困難なことであるために、祝福されているという実感を失うこともあるでしょう。しかし、私たちは神が良い(慈しみ深い)方で、私たちのために常に最善のことをなしてくださる方であることを知っているので、そのような状況の中でも、主に信頼し、主に感謝をすることができるのです。
さらに私たちはこれからなしてくださる「良さ(慈しみ深さ)」のゆえに主に感謝することができます。今抱えrている問題がどれほど大きなものであったとしても、神が約束してくださっていることがあるがゆえに私たちは感謝を持ち続けることができるのです。主は私たちの必要を備えてくださると約束し、私たちを完成させてくださり、常に私たちのためにあらゆる配慮をしてくださる方なのです。この方は必ず私たちをあらゆる苦しみから解放し、ご自身の下に私たちを導いてくださる方なのです。そこには必ず安息があり、そこには完全な祝福があるのです。
私たちは特定の祈りの中で具体的な感謝の根源を見いだすことができないかもしれません。しかし、クリスチャンは常に過去の祝福の記憶と、現在の祝福の自覚と、すべてのことが働いて益となっているという知識を持っています。ですから私たちにはどのようなときでも神に感謝をする理由が溢れているのです。
ただ感謝するということは単に「神様、ありがとうございます」と言うことだけではありません。その感謝は謝意を表すだけでなく、従順の心を生み出します。そしてこの従順が思い煩いを心から閉め出すのです。なぜなら、神がなさっている主の絶対的なみこころに、自分の願望を沿わせることを願うからです [1]。ある注解者はこのことについて次のように記します。

人々が心配し不安になり恐れを抱くのは、彼らが神の知恵、神の力、神の良さを信頼しないからだ。彼らは神が十分な知恵も力も良さも持ち合わせていないがゆえに悪いことが起こるのを妨げることができないと思い込んでいる。このような罪深い疑念がわき上がるのは、彼らの神に対する知識に欠陥があるからか、彼らの罪がその信仰を不具にしているのかのどちらかだろう。感謝に満ちた祈りは恐れと不安からの解放をもたらす。なぜならあらゆる状況をコントロールしている神の主権的支配と神の目的は信徒の最善であることをその祈りは承認するからだ [2]。

神が誰なのかを正しく理解している者は、感謝をもって主の前に立ちます。神のみこころが常に最善であることを正しく理解する者は、あらゆる状況下で主のなしておられることに信頼を置きます。それゆえに、このよう感謝をもって祈る者は、主が教えることに対して従順に生きていこうとするのです。パウロはこのことを9節のところで具体的に教えていますが、そこにたどり着くにはまだもう少し時間が必要です。
私たちはキリストによって成し遂げられた神との和解のゆえに、主権者である神の御前に大胆に出て行くことができます。そこで私たちは自分たちの願いを主に知ってもらうことができるのです。この偉大な神を知っている私たちは、感謝に溢れた祈りを通して神の前に出ることによって、この方への信頼を深め(時に回復し)、神のなしてくださっている最善に期待しながら生きていくことができるようになります。このような態度で捧げられる祈りの生活を私たちが持つとき、神の良さ、知恵深さ、全能な力に信頼するがゆえに、私たちは恐れや不安に支配されるのではなく、平安に満たされた生涯を送ることができるようになるのです。


[1] 参照:Marvin R. Vincent, ICC: Epistle to the Philippians and to Philemon (T&T Clark, 1897), 135.
[2] John F. MacArthur, Philippians (Moody Publishers, 2001), 283.