心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。 悟りのある者の心は知識を求めるが、愚かな者の口は愚かさを食いあさる。悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。 (箴言15:13–15)

ソロモンが告げた上記の言葉は、思い煩う者とそうでない者との違いを明瞭に表しています。思い悩みに沈むとき、私たちの生涯は毎日が不吉の日となります。何が起こるか分からないがゆえに、それに捉われてしまって身動きがとれなくなるのです。けれども、心に楽しみがある人には毎日が喜びに満ちたものになります。パウロがピリピ4:6で告げることは、まさに思い煩って不吉の日々を過ごすか、心に楽しみをもって宴会の日々を過ごすかを決める秘訣と言ってもいいかもしれません。
私たちは聖書が「思い煩ってはならない」と命じていることを知っています。パウロがピリピの手紙の中でそのことを告げるだけでなく、主イエスも、使徒ペテロも同じように思い煩ってはならないことを教えています。しかし、それを「分かっている」と言いながら、私たちは思い煩いと葛藤することが多々あります。人生には多くのプレッシャーがあり、様々な不安を作り出す原因が存在します。それらから完全に解放されることがない中で、私たちは「思い煩ってはならない」という命令を知りながらも、そうしたらこの心配から自分を解放することができるのかが分からずに苦しむのです。
不安というアリ地獄から私たちは抜け出すことができるのでしょうか。心配を打ち破って平安に満ちた生涯を送ることは本当に可能なのでしょうか。実際に多くの人が不安との戦いに日々駆り出されています。人々はこうした不安から解放されたいと願い、専門家と呼ばれる人たちの下に集います。そこでのカウンセリングや処方される薬を通して、一時的な解放を得ることがあるかもしれませんが、不安との戦いは「いたちごっこ」のように、新しい問題が起こるごとに繰り返されていきます。
聖書は私たちにそのような不安との戦いに終止符を打つことができることを教えます。パウロはクリスチャンが持つことができる平安に満ちた生涯があることを教えています。その教えとは、私たちが聖書的喜び耐え忍ぶ心を持ち、私たちの生涯に起こるあらゆる事柄に正しい応答をすることが必要であるということです。間違った応答とは思い煩うことでした。間違った応答(思い煩い)は平安をもたらさないのです。しかし、私たちは正しい応答をすることによって平安を得ることができます。それがパウロが6節で教えていることなのです。

正しい応答(祈り)は平安をもたらす

パウロが思い煩う代わりに行うように命じていることは次のことです。

あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

ここで記されていることはそれほど複雑なことではないように思えます。しかし注意深くパウロが言わんとしていることに目を留めなければ、パウロが伝えようとしていることを見落としてしまう危険があります。パウロはここで単に祈るように命じているのではありません。ここでパウロは一つの命令とその命令を実践する方法を教えてくれています。この命令を正しく理解し、正しい方法で命令を実践していくときに私たちは不安ではなく平安を心に満たすことができるのです。ですからまずパウロが何を命じているのかを考えてみましょう。
正しい応答とは何か
上記のピリピ4:6で記されていることに注意深く目を留めると、パウロが命じていることは「祈りなさい」ではないことに気がつきます。日本語訳でもはっきりと見て取ることができるように、ここでパウロが命じていることは「神に知られなさい」ということです。そして神に知られるべきことが私たちの願い事なのです。この世の様々な事柄に焦点を当てることによって神を見上げ、神の導きに信頼できなくなるのではなく、自分たちの願い求めることを神に知ってもらうようにパウロは命じているのです。
このパウロの命令を正しく理解するために、私たちは少しパウロが使っている言葉を詳しく検証する必要があります。パウロはここで「知られる」と訳される言葉を使っていますが、この動詞は新約聖書に24回登場します。このうち23回は、神またはイエス(もしくは神が遣わした御使い)が人に対して何かを明らかにする場合 [1] か、人が別の人に対して何かを明らかにする場合 [2] のどちらかの意味合いで使われています。しかし、この箇所だけはそのどちらにも当てはまりません。ここでパウロは人が神に何かを知ってもらうように告げているのです。
私たちはここで立ち止まって一つの質問の回答を考える必要があります。それは「私たちの願いを知らせなければ、神は私たちの願いが分からないのか」ということです。正しく神学的に考えるならば、この質問の回答は「否」です。なぜなら神は全知な方であり、私たちの心の隅々まで知っておられる方ですから、私たちが神に願い事が何かを知らせなくても、すでに主はその願い事を完全に知っておられます。私たちは正しい理解の下に祈りを考えることをせずに、「祈りとは私たちの必要や願いを神に知ってもらうことである」と思い込んでいることがあります。しかし、神は私たち以上に私たちの必要が何かをご存じな方なのです。パウロがこの真理を知らなかったと考えることはできません。では、なぜパウロは「神に知ってもらいなさい」と告げたのでしょう。
この回答は最初の質問ほど簡単ではありません。しかし、パウロが記している二つのことに着目すべきでしょう。一つはパウロが「神に願いなさい」とも「神に知らせなさい」とも言っていないことです。つまりパウロの焦点は私たちの行動ではないということです。もう一つは願い事を知らせる対象として記されている「神に」というパウロの表現です。ここで使われている前置詞は、「〜に向かって」「〜に対して」「〜とともに」「〜のみもとに」「〜の御前で」などと日本語で訳されています [3]。この前置詞を使うことによって、パウロは単に祈りを誰に捧げるのかということに言及しているだけでなく、私たちの願いに耳を傾けてくださっている方の前に立っていることを教えているのです。パウロの強調したいことは、私たちの願いを神に知ってもらえることではなく、好意的に私たちの願いに耳を傾けてくださる神の御前に出られるということなのです。
私たちの生涯に不安に思うことがあるとき、私たちはその思い煩いを携えて信頼することができる、すべてをゆだねることができる神の前に出るように告げます。私たちが祈るのは、神の知識が足りないからでも、神に説明するためでもありません。祈りは神に知識を与えるためにあるのではなく、私たちが神を正しく知るためにあるのです。祈りは私たちのことを気遣い、私たちの思いに心を傾けてくださる父なる神がいることを私たちに思い起こさせます [4] 。キリストを信じる信仰を通して与えられた神との関係のゆえに、私たちは自分の願いを、自らの手で携えて、神の御座の前に出ることができます。私たちはこの地上での事柄に縛り付けられてはいません。私たちの生涯に起こるあらゆる不確かな事柄すべてを支配しておられる方との個人的関係を得ているクリスチャンは、その方の前に立って、その方が私たちのために最善を行っておられることを知ることによって、どのような不安からも解放されるのです。
「この世の事柄に目を奪われて思い煩う代わりに、神に目を向けなさい」とパウロは教えます。「助けを与えることができる方の前に立つことができることを忘れてはならない」と告げるのです。私たちがどのような問題を抱えていたとしても、問題よりも遙かに偉大な神が私たちの願いに耳を傾け、ご自身の最善を私たちのためになしてくださっているという確信を私たちは持っているのです。祈りは私たちを神の御前に連れ出します。そこで私たちは神の素晴らしさ、偉大さ、賢さ、そして愛の深さを知ることができるのです。何という幸いでしょう。何という特権でしょう。
「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と命じたパウロは、この特権を私たちに思い起こさせようとしています。そして具体的に私たちの願い事を神に知ってもらう方法をもこの節で教えてくれています。次回の投稿では、この「方法」について学ぶことにしましょう。
 
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[1] 例: ルカ2:15; ヨハネ15:15; 17:26; 使徒2:28; 9:22–23; エペソ1:9; 3:3, 5; コロサイ1:27など。
[2] 例: 1コリント12:3 (「教える」); 15:1; 2コリント8:1;  ガラテヤ1:11; エペソ6:19, 21; 2ペテロ1:16など。
[3] 特に「神」という名詞と共に用いられているケースで、最も重要なのはヨハネ1:1に出てくる「ことばは神とともにあっと」という箇所でしょう。そこでは「ことば」が神と顔と顔を合わせているような関係にいることを表現しています。
[4] 祈りの本質について関心のある方は「クリスチャンの祈り1」などの投稿をご覧ください。