「思い煩ってはいけません」という命令は、「ありとあらゆる心配をしてはならない」という命令ではないことを私たちは前回の投稿で学びました。パウロがピリピ4:6で禁じる思い煩いとはありとあらゆる心配や気遣いから完全に解放されることでも、人生の様々なプレッシャーから完全に解放されることでもありません。では、パウロが禁じている「思い煩い」とはいったいどのようなものなのでしょう。それを正しく知らなければ、私たちは正しくこのこの命令を全うし、不安ではなく平安に満ちた生涯を送ることはできません。ですから、今回はこの私たちが禁じられている思い煩い・心配がどのようなものなのかを考えていきたいと思います。
思い煩いとは完全なる神への信頼を忘れることである
前回の投稿で見たように、心配には良いものと悪いものが存在します。パウロがもっていた教会に対する心配は悪い思い煩いではなく、むしろ心から人々を愛するならば持っていて当然な心配です。しかし、悪い心配というものもあるのです。主はこのことを具体的な例を通して教えてくれています。
ルカ10:38–42にマルタとマリヤの話が出てきます。給仕に一生懸命だった姉マルタとイエスの話を熱心に聞いていた妹マリヤの話です。この記事の中で次のようなマルタとイエスのやりとりが記録されています。

 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、 マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」(ルカ10:40–42)

ここでイエスは、マルタが思い煩っていたことを明言しています[1]。マルタは彼女の周りにあった多くの事柄に目を向けることによって、正しいことに目を向けることができず、真に良いものを見ることができなかったのです。
またイエスは種まきのたとえの解説をする際に、この悪い心配に関して言及しています。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。(マタイ13:22)

福音の種がいばらの中に蒔かれたことで実を結ぶことのない人物は、「この世に関する思い煩い」によってみことばをふさいでしまっていることがここで教えられています[2]。みことばを受け取っても、そのみことば以上にこの世のことがらに深い関心を持っているので、この人物は実を結ぶことができないのです。
パウロは結婚に関する教えをする中で、次のような言葉を使います。
あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配 り、心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。 (1コリント7:32–34)

ここでパウロは良い心配と悪い心配について話をしています。パウロは結婚をしてはいけないという話をしているわけではありません。そのことは文脈を見れば明らかです。しかし、同時にパウロは神への正しい心配りを持ち、心が分かれることがないために、人が独身でいることは良いことであることを告げています。禁じられていることは何事においても正しい焦点を持てなくなることであり、地上のことに焦点が当たることによって天の事柄に集中することができなくなることにあるのです。妻のことを心配することが悪いのではありません。しかし、もしその心配のゆえに天の事柄に対する焦点を失ってしまうならば、それは悪い思い煩いとなっているのです。「どうすれば主に喜ばれることか」と心配るのではなく、神以外のことに思いがいってしまうがゆえに、神が求めていることが何かということを思い巡らすのではなく、地上の事柄に心を配りそれに思いを寄せるために「心が分かれる」ことが問題なのです。
もし誰かに、または何かに余りにも思いを寄せるがゆえに、正しい焦点を失ってしまうなら、それを止めなければなりません。問題は私たちがこの地上のことに思いを寄せてしまうことであり、それだけに思いが捉われることなのです。そのような状態になるとき、私たちは神が求めているあらゆる良いことから目をそらすようになります。妻のために心配することは悪いことではありません。それはむしろするべきことです。しかし、心配するが余り、正しい焦点を失ってしまい、心が不安に満たされ、そこから身動きできなくなってしまうなら、私たちの心は明らかに「分かれて」いるのです。ここに問題があるのです。
この世の様々な事柄に私たちが捉われてしまうなら、私たちは段々とこの世が求める事柄において何をしなければいけないのかということを考えるようになり、人の目を気にして失敗を恐れるようになり、いろいろなことに不安を抱くようになります。この世のことに思いを寄せてしまって神が求めていることができなくなってしまうなら、それこそがパウロが言っている 「思い煩い」なのです。不安が不安を呼び、恐れがさらなる恐れを引き起こして、本来心を寄せていなければならない主が求めることから私たちの心が遠ざかるとき、私たちは悪い思い煩いをしているのです。神が求めていることは神が命じている正しいことをすることです。正しく主の求めることを実践できるように心を配ることは良いことなのです。それこそが私たちが心配るべき事柄です。
パウロはこの地上での生活において、私たちが身動きできなくなるほど心配しなければならない事柄は存在しないことを強調します。私たちが余りにも地上での事柄に集中し、そのことを思い巡らすゆえに、私たちが不安に捉えられてしまい、動くことができないと思わなければいけないことは何ひとつないのです。それがこの「思い煩ってはならない」という命令に前に付けられている「何も〜ない」という言葉で表現されています。原文ではこの単語が文頭に記されていて、特に「何もない」ということが強調されています。神の事柄から焦点を奪うようなものは、神の事柄以上に心を配らなければならないことは何一つないことをパウロは教えているのです。
イエスも山上の説教で同じことを語られました。イエスの教えを見て下さい。
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 (マタイ6:25–24)

イエスは単に着るものや食べるものの話をしているわけではありません。私たちが地上での生活を営んでいく際に考えられるあらゆる必要に言及して、「心配するな」と語るのです。私たちはこの命令に注意を払わなければなりません。主イエスも使徒パウロも、冗談で「思い煩うな」「心配するな」と命じるのではないのです。一人の牧師は次のようにイエスの言葉を解説します。

イエスは私たちに心配するなと命じています。そして、それははっきりと思い煩うことが罪であることを私たちに教えています。心配をする、この世のことに思い煩いを抱くクリスチャンは、実に神に向かってこう言っているのです。「神様、私はあなたが言わんとしていることは理解はできますが、あなたが実際に私のことを心配して、私のために最善を為してくれるなんてとても思えません」と。不安は神の力と愛に対するあからさまな不信行為以外の何物でもないのです。[3]

神から目を離させ、この世の事柄に思いを向けさせる不安や思い煩いは罪です。多くの場合に、不安は精神的な問題ではなく、霊的な問題なのです。不安は私たちの心から喜びを奪い取ります。思い煩いは神が日々の生活に備えてくださる平安を私たちの心から追い出すのです。なぜならそれは私たちの焦点を神から遠のけるからです。
人を殺すことが罪ではないと思う人はいないでしょう。「死んでしまえ」と思ってもかまわないと考えるクリスチャンもいないはずです。なぜなら聖書がそれを罪だと教えていることを知っているからです。週に3回位までなら自分の欲に引き寄せられてもかまわないと思っている人もいないでしょう。なぜなら聖書がそのような考え方を認めないからです。聖書が「罪である」とすることはその回数や量にかかわらず罪なのです。クリスチャンはそれを知っているので、実際に行動に起こすことがなくても、また頻度が少ないことであったとしても、主の前に罪を悔い改めなければならないことを知っています。
しかし、なぜか私たちは少し位の思い煩いは主の前に認められていることだと考えるのです。正しくない、悪い心配をするのは、禁じられていることではないのでしょうか。なぜ不安は人生に付随するものであると考え、思い煩いの中から出て行くことに妥協するのでしょう。私たちは真剣にこのことを考えるべきです。神は「思い煩うな!わたしに焦点を当てよ!」と命じています。そして私たちはそのように自らの思いを主に向けていかなければならないのです。
では、どのようにして私たちは神に焦点を当てるのでしょう。どのようにして思い煩いを解消して行くので しょう。次回の投稿で、パウロの言葉からその回答を見ていきましょう。
 


[1] ルカ10:42で使われている「心配する」という動詞はピリピ4:6の「思い煩う」と訳されている動詞と全く同じ動詞です。
[2] ここで「心づかい」と訳されている単語は、「思い煩う」という動詞の名詞形です。
[3] John F. MacArthur, Jr., Anxiety Attack, 15.