主イエス・キリストを信じるすべてのクリスチャンにとって、平安に満ちた生涯を送ることは「あこがれ」や「理想」ではなく、主ご自身が約束された現実です。混乱の中にあった11人の弟子たちに聖霊をお与えになることを約束された主は「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたに平安を与えます」(ヨハネ14:17)と告げられました。この約束は確かに11人の弟子たちに対して語られたものですが、同じように主から聖霊を与えられている私たちもこの平安を得ることができることを聖書は教えています。パウロはコロサイの教会に宛てた手紙の中で、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3:15)と命じます。この箇所ではっきりしていることは、キリストの平和がすでに与えられているという事実です。私たちが平安のない生涯を送るのは、平安が与えられていないからではなく、平安がないからでもなく、私たちが平安に支配されようとしていないからなのです。
心は自動的に平安で満たされるようになるわけではありません。与えられている平安を味わって生きていくためには私たちが確かに実践していなければならない事柄があるのです。ピリピ4章に記されているパウロの言葉から、私たちは平安に満ちた生涯を送るための条件を二つ見てきました。4節では聖書的喜びが平安をもたらすということを学び、5節では耐え忍ぶ心が平安をもたらすということを学びました。パウロは「どうしたら平安を味わって生きることができるのか」という問いに対して、喜びと寛容な心が必要であることを教えています。しかし、パウロの教えはここで終わりません。もう一つ平安に満ちた生涯を送るために欠かすことのできない条件があるのです。それが6節で教えられている正しい応答が平安をもたらすということです。

正しい応答が平安をもたらす

私たちの人生は様々な予期せぬ出来事で溢れています。それゆえに不安で心が縛られることが多々あります。自分の仕事のこと、家庭のこと、学校のこと、結婚のこと、健康のこと、子どもたちのことなど、ありとあらゆることに思い巡らし、思い煩うのです。 ある人は今晩の夕食は何にしようと思い悩み、そのことに心配るかもしれません。夕食のことがあまりにも気になるがゆえに、もしかすると「私が作る夕食はおいしくないから家族は食べてくれないかもしれない」と不安になるかもしれません。そうするともう何もできなくなり、買い物に行くことさえもできなくなり、いろいろな心配に支配されてしまって先に進んで行けなくなるのです。生活の中の細かい小さな事柄から、人生における大きな大切な事柄に至るまで、私たちの心はあらゆることに思い悩みます。けれども、クリスチャンはこのように思い煩う必要がないことを聖書は教えています。たとえ予期せぬことが絶えず起こる生涯であったとしても、人生のあらゆる局面で神の前に正しい応答をすることができることをパウロは教えてくれるのです。
ピリピ4:6には多くのクリスチャンが愛し、暗唱している次の言葉が記されています。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

この節には「思い煩うな」と「知られなさい」という二つの命令が記されています。これらの命令は、私たちが生活の中で行う間違った応答と正しい応答を明らかにしています。平安に満ちて生きるためには正しい応答が必要です。それを具体的に知るために間違った応答と正しい応答が対比されているのです。パウロはまずはじめに間違った応答がどのようなものなのかを教えてくれます。それが「思い煩いは平安をもたらさない」ということです。

間違った応答(思い煩い)は平安をもたらさない

パウロは簡潔に「何も思い煩ってはいけません」と告げます。「思い煩う」という言葉は理解の困難な言葉ではないので、何も考えず、意味を正しく理解しているつもりで先に進んでしまうことがあります。しかし、人生の様々な事柄に正しく応答するためには、ここでパウロが言っている「思い煩ってはいけない」ということが何を指しているのかをしっかりと理解していなければなりません。これは間違った応答を辞めて正しい応答をしていくために欠かすことのできないことなのです。ではパウロが禁じている重い患いとはどのようなものなのでしょうか。そのことを少し具体的に考えてみましょう。
思い煩いとはあらゆる心配や気遣いから完全に解放されることではない
ある人は「思い煩ってはならない」と命じられているので「あらゆる心配もしてはいけないのだ」と考えているかもしれません。心配すること自体が間違ったことであると考えるのです。しかし、パウロがここで告げていることは「私たちの生涯からあらゆる心配や心遣いをなくしなさい」というものではありません。ここで使われている「思い煩う」という動詞は、新約聖書の中で19回使われていますが、この中でパウロ自身が自分の思いを表現するためにこの動詞を使っているところがあります。例えばピリピ2:19–20がそうです。そこには次のように記されています。

しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。

ピリピにテモテを送ることによって教会の人々に励ましを与えることをパウロは願っていました。なぜなら、パウロはピリピの人たちのことを「心配していた」からです。この「心配す」と訳される動詞は「思い煩う」と同じものです。テモテもピリピの人たちのことを思い煩っていたのです。この動詞は、だれか、または何かに対する強い感情を表わしています。多くの場合に否定的な意味で、つまり悪い意味で使われるのですが、ピリピ2:20のように肯定的に良い意味で使われている場合もあります。人生のいろいろな出来事に対する心配り、心配、気遣いを、パウロは「思い煩ってはいけない」ということばをもってすべて否定しているわけではありません。「心配」自体は間違ったものでも、罪深いものでもないのです。
1コリント12:25でパウロは非常に興味深いことを告げています。そこには「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです」と記されているのですが、この「いたわり合うため」と訳されている言葉はピリピ4:6の「思い煩う、心配する」と同じ動詞です。パウロは教会にいる一人ひとりが互いに心配り合い、気遣い合い、心配し合うことは神の目的にかなったことであることを教えているのです。
パウロは「一切の心配を持つな」と言っているのではありません。「思い煩うな」という命令を守ることは、私たちが何事にも誰に対しても一切の心配をしないということではないのです。しなければならない心配があります。私たちは気遣い合わなければなりません。相手のことをいたわろうとしなければなりません。他の人の必要をどのように満たすことができるのかということに心配っていなければならないのです。あらゆる心配がいけないわけではありません。心配には良い心配と悪い心配、しなければいけない心配としてはいけない心配があるのです。
思い煩いとは人生の様々なプレッシャーから完全に解放されることではない
「思い煩うな」ということは、私たちの心を締め付ける様々なプレッシャーから解放されることではありません。パウロの次の言葉を見てください。
彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。(2コリント11:23–28)

パウロはここで自分が体験した様々な肉体的困難、迫害、試練を列挙していますが、その最後に「教会への心づかいがあります」と言っています。この「心づかい」と訳されている言葉はピリピ4:6に出てくる動詞と同じ語源の名詞です。パウロが言っているのは「私は様々な困難をキリストのために受けて、肉体的な患難が私の上にあり、それらはとても辛いものだったが、それと同じくらい、いやそれ以上に私には心遣いがあった。救われた人に対する心遣いがあった」ということです。コリントの人たち、ピリピの人たちのことを考えてどれほど眠れない夜を過ごしたことでしょう。様々な偽教師たちがやって来て、その教えになびいていたガラテヤの人たちのことを考えてどれほど心苦しんでいたことでしょう。
パウロは「思い煩ってはいけない」と命じています。それは私たちが人生の様々なプレッシャーから全く解放されることではありません。重くのしかかるプレッシャーのない生涯を送ることを命じているのではないのです。正しい気遣いをもっていても、そのようなプレッシャーを感じることはあります。子どものことを思い、愛する人のことを思い、私たちはどのようにその人を助けることができるのかと祈りつつ眠れない夜を過ごすことが度々あります。パウロはそれを禁じているのではないのです。そのようなことはあるとパウロは言います。事実パウロ自身がそのような思いをもって生きていたのです。
ではどのような「思い煩い」が禁じられているのでしょう。次回の投稿でこのことを考えてみたいと思います。