「平安に満ちた生涯を送るために」と題してピリピの手紙4章4節から9節までのみことばを考えていますが、これまで私たちは平安に満ちた生涯を送るための条件を4節と5節から見てきました。平安は誰にでも自動的に備えられるものでなく、特定の条件を満たしている人物のみが得ることのできることをパウロは二つの具体的な命令を通して明らかにしています。一つ目は聖書的喜びが平安な生涯をもたらすということでした。そこで私たちは聖書的な喜びとは何か、聖書的な喜びとはどこから来るのか、そして聖書的な喜びをどうしたら得られるのかをみことばを通して考えました。「何が起こっても万全である」という確信が喜びであり、その確信は神との真の和解を得るときに持つことができるすばらしい特権です。二つ目の条件は耐え忍ぶ心が平安な生涯をもたらすということでした。5節に記されていることから私たちは、寛容とは何か、なぜ寛容が重要なのか、どのように寛容を現すのかということを学んできました。どのような状況にあっても、耐え忍ぶ心をもって相手の最善のために愛を実践することが平安を自分のものとして生きていくために不可欠であることをパウロは私たちに教えています。しかし、寛容に関して考えるべきことはこれだけではありません。もう二つ、考えなければならないことが5節には記されています。

誰に寛容を示すのか

抱える苦しみや痛みが大きなものでないならば、寛容な心で愛を示していくことができると考えることでしょう。しかし、このような寛容には、どこまで耐えることができるのかという限界が存在します。「ここまでは許せるが、これ以上はだめだ!」というラインを私たちは持っています。誰かがこの線を越えると、私たちは「もう我慢の限界だ!」と言って、忍耐をしないことを正当化するのです。「こんなひどいことをされたのに我慢することなんてできない」と考え、どうやって受けた行為に対する妥当な報復をしようかと考えます。確かにこの世はこのように行動し、私たちが正当な報いを与えようとするときに「それは当然のことだ」と大いに同調するでしょう。しかしクリスチャンには、過去であれ現在であれ、どれだけ苦しみを受けたとしても寛容な心を現さないことに対するいいわけはできません。パウロは忍耐に関する「個人的限界」の存在を認めてはいないのです。

5節には次のように書いてあります。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。」ここには私たちが耐えることのできないような苦しみを与える人たちも含まれているのです。私たちの寛容が知られる対象は「すべての人」です。そこに例外はありません。私たちの堪忍袋の緒は切れてはならないのです。

こんなことを記すと、「それは理想かもしれないけど、私には無理です」と思う方がいるかもしれません。しかし、主はそのような寛容を私たちが示すことを要求されています。なぜなら主、ご自身がそのような寛容をもって私たちに接してくださり、このような忍耐をもって十字架上で自らの愛を豊かに示されたからです。この’主の愛は「堪忍袋の緒が切れる」ことのない愛なのです。

私たちは主が私たちを愛した愛で、互いに愛し合うことが求められています。それが最愛の伴侶であったとしても、最大の敵であったとしても、耐え忍ぶ心で愛を実践することが必要なのです。

なぜ寛容でいられるのか

寛容でいることは容易なことではありません。しかし、寛容でいるための動機をパウロはちゃんと与えてくれています。それが、まるで突然脈絡なく付け足されているかのように見える「主は近いのです」という言葉です。ここでパウロはどうして寛容でいることができるのか、これが平安を得るための条件であるのかを明瞭にしているのです。

この「主は近い」という表現は二通りに解釈することができます。一つは場所的な近さ、つまり「主が私たちの近くにいてくださる」という近さで、もう一つは時間的な近さ、つまり「主がすぐに来てくださる」という近さです。もし、場所的に近いと考えるなら、この表現はここまでの文章につながると考えるよりも「主が近くにいてくださるから、思い煩わないで祈りなさい・・・」というように6節、7節の言葉につながると考えるべきでしょう。けれども文脈を見て行くと、時間的に近いと考える方が正しいでしょう。パウロは3:20–21でこのキリストの来臨について記したばかりです。また1:6, 10–11; 3:10などに代表されるように、この手紙はキリストの来臨の日に起こる主に似た者になるという終末的な希望に焦点が当てられていることからも見て取ることができます。

ではこの主の来臨の近さがどのように私たちを寛容へと動機づけるのでしょう。一つは私たちの経験するあらゆる苦しみや困難から完全に解放される日が近いことを知ることです。ヤコブは同様にこう告げています。

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。(ヤコブ5:8)

主が来られる日が近いということは私たちが悪者の手から永遠に解放される日が近いことを教えています。その日が近いからこそ、主を持ち望みながら、主が地上におられたときに示されたようにあらゆる場面で、すべての人に寛容を示すことに努めるのです。

同時に主の来臨の近さは私たちに寛容を示すもう一つの動機を与えます。それは悪を正しく裁く方が来られるということです。私たちは自分たちが人々の悪に報いることができる裁き主でありたいと願い、またその地位に就くべきだと考えて行動していることが多々あります。「復讐は私のものだ!」と告げ「私には敵に災いをもたらす権利がある」と訴えるのです。しかし、クリスチャンは私たちがそのような地位にいないこと、そのような権利を持っていないことをしっかりと理解していなければなりません。パウロは次のように記して、私たちにこのことをはっきりと教えてくれています。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)

人々は私たちに様々なことをします。悪意をもってすることもあれば、そうでないこともあります。その人たちが何を考えて何をするのか、私たちにその心の中まで探ることはできません。私たちの判断は残念ながらいつも正しいものではないのです。 感謝なことは、私たちが他の人の動機を吟味して彼らに報いを与えなくてもよいということです。私たちがすることはその人を愛することだけです。そして、さばきは主に任せるのです。

義なるキリストの来臨が近いという事実は、クリスチャンが主の寛容を周りの人々に示そうとする大きな動機となります。必ず主が私たちを解放してくださり、必ず主が正しい報いを与えてくださることを確信しているがゆえに、私たちは主が命じるように「寛容な心をすべての人に知られる」生き方をしていこうと努めるのです。

平安に満ちた生涯を送るためにはこのような心を持っていることが必要です。なぜなら憎しみや復讐心に満ちたところには平安は存在しないからです。聖書は私たちに、主の前に正しく歩もうとする者には迫害が起こると約束しています。私たちの周りの人たちは時に私たちを傷つけ、悲しませ、苦しみを与えます。しかし、天に国籍を持つ者は、「平和をつくる者」として寛容を現しながら生きる者です。そのように生きていこうとする者たちに、主の平安は確かに約束されています。