「寛容である」とは「他者が与える虐待や困難を忍耐を持って耐え忍ぶ」ことです。そして私たちはこの寛容もってすべての人に接することが要求されています。なぜなら私たちは彼らを愛するように命じられているからです。しかし、この命令を実践することは容易なことではありません。愛をもって耐え忍ぶことは時にとても困難なことです。この「私にはできません」と思うようなことをいったいどうやったら私たちは行っていくことができるのでしょう。私たちの生まれ持った性質とは異なる習慣を、どうしたら身に着けていくことができるのでしょう。パウロはここで非常に興味深い言葉を使って、私たちが「寛容」を実践していくための方法を教えてくれます。パウロがピリピ4:5で命じていることは、実は「寛容でありなさい」ではありません。命令は「知られなさい」です。今回はこの命令形の動詞に焦点を当てて、どのように寛容を現すのかを考えて生きましょう。

どのように寛容を現すのか

新改訳聖書では「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい 」と訳されていますが、ここでパウロは受動態の動詞を用いて「知られなさい」と命じています。わずかな言葉の違いが、大きな意味の違いをもたらしています。パウロはあなたがたの寛容が知られないといけないと告げているのです。これは単に「自分の権利を主張しない」ということや、「嫌なことが起こったときに我慢しなさい」とか「どんなことでも、どんな人に対しても堪えなさい」ということではありません。「いろいろな苦しいことをもたらす人がいるとしても、その人たちに悪い思いを抱かないように、悪いことをしないように、 その困難に対して耐え忍び続けなさい」ではなく、「あなたがたの寛容が周りに知られるように、それが具体的に見えるようにしなさい」と告げているのです。

パウロは私たちの寛容がすべての人の前で明瞭に示されなければならないと言います。見ている人たちの前で、寛容がはっきりと示されることを要求しています。しかし、いったいどうしたらこの寛容が具体的な形で人々の前に示されるのでしょう。何を見たら、周りの人々は私たちが「寛容な心で」生きていていることを見て取ることができるのでしょう。

ただじっと我慢しているだけでは寛容な心を知らせることはできません。私たちの人生を困難で惨めなものにする人々に対して最善なことを積極的に行っていくことが必要なのです。聖書的な愛に根ざす寛容は、私たちを苦しめる者たちに対して悪を行うことを願うのではなく、彼らにとって最善となることを行おうとして生きるときに、その姿をはっきりと示します。聖書的愛のゆえに、その人たちの最善となることを切に求め、実践し続けながら、忍耐強く接することなのです。 ダビデは詩篇37:7–8で次のように告げます。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

ダビデの忠告に耳を傾ける必要があります。彼は、悪意をもって接する者たちに対して、悪をもって報いることは神を信頼する者のなすことではないと言います。むしろ、主の正しい裁きを待ち望んで、彼らに対する怒りや復讐心を捨てるようにと言うのです。もし私たちに悪を行なう者たちに対して悪をもって報いるなら、それは私たち自身が悪の道を進んで行くことなのだとはっきり警告するのです。

同じ内容の警告を新約聖書においても見ることができます。パウロはこう告げます。

だれも悪をもって悪に報いないよう に気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。(1テサロニケ5:15)

ペテロは同じように1ペテロ3:8–9で勧告します。

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

これが私たちがどのようにして寛容を示すかという具体的な例です。罪に満ち溢れたこの世界で間違いなく起こることは人々が私たちを傷つけることです。意図的であろうとなかろうと必ずそれは起こります。人は罪人なので、常に自分中心に生きようとするからです。そのようなことを何度も経験しながら私たちはこの地上での生活を送って行きます。そのような中で、聖書は私たちが、困難や迫害をもたらす人たちに愛をもって最善となることを行いなさいと命じているのです。

パウロは同じことをローマ人の手紙の中でも記しています。彼は次のように告げます。

だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 (ローマ12:17)

この節を直訳すると「誰に対しても悪に悪を報いることをせず、すべての人の前で良いこと(尊ばれること)をあらかじめ考えておきなさい」となります。新改訳聖書で「図りなさい」と訳されている言葉には「あらかじめ考えておく、物事が起こる前にすでに決めておく」という意味があります。つまり、あらかじめ決めている「善をしよう」という思いに基づいて「良いこと」を行ないなさいとパウロは告げているのです。私たちが考えておくべきことは、どうやって復讐しようかと計画することではなく、どうしたら相手の益になることができるかを計画することです。相手の不幸を思い描くのではなく、彼らの幸福を思い描き、それを成し遂げるためにできることを行っていこうとすることなのです。

寛容な人というのは何をする人でしょう。与えられる苦しみや迫害を忍耐強く我慢するだけでなく、あらかじめ定めていた良いことを行う人です。パウロは私たちが復讐をするのではなく、怒りを心に蓄えて、どのようにしてこの受けた被害にふさわしい報いを彼らに与えることができるかを考えて行動するのではなく、 彼らの最善、喜ぶことを考えて実践して行くように命ずるのです。

17節でこのように命じたパウロはその直後に興味深いことを記しています。18節には「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と書かれています。すべての人と平和を保つことができるように、自分の心を見張りなさいと言うのです。もし私たちの求めることが、自分の権利を主張し、相手に対する復讐することであるならば、決して平安を得ることはできません。なぜなら私たち自身が、平和を乱す者となっているからです。確かに誰かが私たちに争いを仕掛けてくるならば、彼らと平和な関係を保つことはできません。しかし、私たちが彼らに対して平和を求める態度を持っていなかったら、平和がそこに備えられることはないのです[1]。

平和というのは相手があることです。もし私たちが平安に満ちた生涯を生きようとするなら、私たちが内側において相手に対する平和をもっていなければなりません。争いの心を持ちながら平安を得ることはできないからです。私たちは決めておかなければならないのです。 「誰が何をしたとしても私はその人に対して最善のことを行ないたい」と。この決心を私たちが身に着け、実践していかない限り、私たちは平安を体験することはないのです。どのようにして私たちは寛容を実践するのでしょう。それは私たちが愛に基づいて相手の最善を実践するところに現れます。相手にとって最善のことを計画しそれを実践することによって、私たちの周りにいるすべての人々に私たちの寛容が見て取れるのです。

私たちは主が私たちに対して寛容をはっきりと示してくださったように、私たちの周りにいる人々に寛容を示さなければなりません。このような生き方を私たちがするときに、主が確かに私たちを変えてくださり、主の愛が私たちのうちに働いていることを、世に明瞭に示すことができるのです。

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[1] 誤解のないようにあえて明瞭にするならば、これは罪を責めないということではありません。なぜなら、相手にとって最善なことは罪が責められることでもあるからです。けれども、私たちは罪を責めるという名のもとに、相手に復讐をしてはいけないのです。残念ながら、私たちがみことばをもって人を責めるとき、そのみことばによって復讐しようすることがあります。赦す準備ができていないのに、みことばを使って相手を責め立てるのです。私たちが罪を責めるのは和解をしたいからです。罪が責められてその人が悔い改め、神との和解を回復し、兄弟姉妹との和解を回復したいから責めるのです。 もしその準備ができていないなら、私たちはまず自分の心の内側に平安を保つことができるように、自らの罪を悔い改めることです。確かに、キリストが愛されたように敵さえも愛することを命じられているクリスチャンは、たとえ相手が誰であっても、愛をもって接しないことは罪であることを認めなければなりません。