聖書的喜びに加えて、耐え忍ぶ心を持つことが、平安に満ちた生涯を送るために必要であることをパウロはピリピ4:4–5で教えています。「すべてが万全である」という聖書的な確信に基づいた喜びが平安に溢れた人生に必要であることは、理解しがたいことではありませんが、「寛容な心を知らせる」ということが平安の生涯とどのような関係があるのかは、すぐに分からないかもしれません。ここで使われている「寛容」と訳されている単語の持つ意味を要約すると「他者が与える虐待や困難を忍耐を持って耐え忍ぶ」となりますが、この「寛容」と平安にはどのような関係があるのでしょう。その回答はパウロが語っていることを注意深く考えるときに理解することができます。

なぜ寛容が重要なのか

「自分の求めるあらゆるものが自分が受けるにふさわしいものだと言って譲らない人に、真の幸福は訪れない」という言葉を聞いたことがあります。今日私たちが生きている社会は「自身」に焦点が向けられている社会です。人々は「自分の権利」が何かということに関心を持ち、どうやって自分が受けるべき事柄を手にすることができるかを考えて躍起になっています。しかし、そのような思いで生きていくとき、私たちは平安を手に入れる代わりに、いらだちと不安を味わうようになるのです。なぜなら私たちが得て当然だと思っているものをすべて手に入れることはできないからです。

私たちは自分の権利を主張し、自分が考える「受けるべきこと」を手に入れなければ気が済まないと考えます。けれども、私たちが考える「受けるべきこと」と私たちが受けていることには大きな開きがあります。それで、私たちは自分が受けて当然だと思うものを躍起になって追い求めるのです。「自分は幸せになって当然だ」「今までこれだけ苦労したのだからその報いがあって当然だ」と考えるので、自分の考えている幸福を妨げる原因となる人たちを恨み、憎しみの念を抱きます。また自分が手に入れることができないものを他の人が持っていると、それは不公平だと言うのです。このような思いを持って生きて行くなら、私たちの心の中に満ちてくるのは平安とは反対の思いです。苛立ち、恐れ、不安、人に対する怒りや恨みが心を支配していくでしょう。

私たちの人生には困難がつきものです。ピリピの教会の人たちにも困難がありました。ピリピ1:27–30には、ピリピの信徒たちが福音のゆえに人々から迫害を受けていたことが書かれています。そこでパウロは彼らに選択があることを告げました。彼らは与えられる苦しみを苦々しく思い、迫害者たちを憎むこともできました。しかし、敵の手によって与えられるこのような痛みや苦しみも主権者である主の支配の下で起こっていることを知っているがゆえに、忍耐を持って、寛容な心で苦しみをもたらす人々に接することもできたのです。

怒り、憎しみ、苦々しい思いを敵に対して持つ代わりに、たとえ相手が敵であったとしても「愛しなさい」と命じています。主はこうおっしゃいます。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫 害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。あなたがもし天国に属する者であるなら、神の御国に入るにふさわしい者であるなら、あなたがするべきことは「あなたの敵を愛すること、あなたを迫害する者のために心 から祈ること」だと主は言われるのです。これはしてもしなくてもいいのものではなく、私たちが命じられている、なさなければならないことであり、天国民としての責任なのです。

私たちは自分が受けてふさわしいと思うことを追求し始めるとき に、簡単に苛立ちを覚えます。それが与えられないことが多いからです。怒りを覚え、憎しみを持ち、苦々しい思いが心を満たすのです。そのとき私たちは大切なことを忘れています。それは、「私が与えられて当然であると考えていることが、与えられないことは良いことである」ということです。神はすべてのことを支配しておられます。神が与えないということはそれが万全であり、最善なのです。 それが最も私にすばらしいことであり、神の栄光が現わされることなのです。神の最善を忘れて、あくまで自分が受けて当然と思うことを追求するなら、心の中には平安が生まれて来ないのです。

聖書の示す原則に反しない限り、耐え忍ぶ心をもって自分の要求を他者のために横に置くことはキリストの模範に倣う者の生き方であるべきです。なぜならキリストはまさにそのように、自分の権利を主張するのではなく、自ら卑しい者となり、喜んで苦しみを受けられた方だからです(ピリピ2:6–8)。

キリストに属する者は、キリストが愛されたように愛することが命じられています。キリストは彼の上に困難をもたらしたすべての人に、忍耐と寛容をもって接しられました。なぜなら、主は彼らを愛されたからです。敵をも愛することを命じた主は、その文脈の中でこのように言われています。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか」(マタイ5:36)。私たちが愛さなければならない人は、私たちを憎む人だと言われるのです。

パウロは1コリント13:4,5で愛をこのように説明しています。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりま せん。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず・・・

ここに出てくる「寛容」という単語はピリピ4:5で使われているものとは違うものですが、この単語を直訳すると「長い間苦しむ」となります。つまり忍耐をもって困難を受け続けること教えているのです。それだけではありません。5節ではこのクリスチャンの持つべき愛が「自分の利益を求めず」「人のした悪を思わない」ものであることが告げられています。相手に対する苦々しい思いに満たされ、悪い思いを抱くのではなく、クリスチャンの心はそのような人たちに対する愛に満たされるべきなのです。私たちが苦しみを受け、困難な状況に立たされているときでさえ、そのような状況をもたらす相手に対しても「最善を行いたい」「その人たちが喜ぶことを行なっていきたい」と心から願っているなら、愛することを決意しているがゆえに、私たちの心には平安があります。その愛が私たちの生涯に溢れるときに、私たちの心にはいらだちや憤りの代わりに、平安が満ちて行くのです。

耐え忍ぶ心がなければ、私たちは常に怒りや嘆きに溢れてしまいます。自分の権利を徹底的に主張し、「自分が受けるにふさわしい」考えることがらだけを追い求めるときに、それを得ることができない現実の中で、私たちの心は平安を失うのです。だから「寛容な心」が必要であるとパウロは教えます。しかし、ここでパウロが命じていることは「寛容な心を持ちなさい」でも「寛容でありなさい」でもありません。「寛容な心をすべての人に知らせなさい」というのが命令です。パウロは私たちに何を求めているのでしょう。このことを次に考えていきたいと思います。