パウロは様々な書簡の冒頭または最後によく「神の平安があなたがたとともにあるように」といった言葉を記しています。これは単なる願望ではなく、パウロ自身が持っていた確信でした。なぜならクリスチャンが神の平安を実際に手にして、この地上での生活を歩んで行くことができることを彼は知っていたからです。イエスは弟子たちに次のように約束されました。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

ではなぜ、私たちはこの平安をもって地上の生活を歩むことが少ないのでしょう。なぜ私たちの心は平安に満たされるのではなく、むしろそれ以上に、心騒ぎ、不安に満ち、思い煩うのでしょう。いったいどうすれば平安を体験することができるのでしょう。私たちはこの質問の答えをパウロのことばから学び始めました。パウロはピリピ4:4-9 で、どのようにすれば平安に満たされた生涯を送ることができるのかを教えます。 この箇所から私たちは平安に満ちた生涯を送るための条件、平安に満ちた生涯を送るための方法、そして平安に満ちた生涯を送るための実践を知ることができるのです。

平安に満ちた生涯を送るための条件

私たちが最初に考えなければならないことはキリストが約束し、パウロがすべての信徒が持つように願っている平安を得るために何が必要なのかということでした。パウロはピリピ4:4–5で、この平安を持って生きるためには二つの条件があることを教えています。一つは「聖書的喜び」でもう一つは「耐え忍ぶ心」です。

聖書的な喜びが平安に満ちた生涯をもたらす

これまでの投稿の中で私たちは聖書的喜びが平安に満ちた生涯を送るために必要であることを見てきました。パウロは4節で次のように記しています。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

聖書的喜びは感情的なものではありません。この喜びは、神が信徒の最善のため、 ご自身の栄光のためにあらゆる事柄を支配しておられるという真理に対する絶対的信頼に基づくもので、それゆえ、どのような状況にあっても、すべては万全であると根底から確信することによって生まれるものです。このような確信が私を支配しているので、私たちは不安になることがありません。すべては良いことのために起こっていることを知っているからです。だから平安に満ちて生きて行けるのです。もし、私たちの心にこの聖書的喜びが存在しなければ、私たちは決して平安に満ちた生涯を送ることはできません。けれども、必要な条件はこれだけではありません。パウロはもうひとつの条件を挙げています。それが5節に書かれています。

耐え忍ぶ心が平安に満ちた生涯をもたらす

平安に満ちた生涯を送るには、寛容な心が必要だとパウロは言います。よく知られている4節と6節に挟まれて目立たないのですが、パウロは平安を持つために必要な大切なことを私たちに教えているのです。そこには次のように記されています。

あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

単にこの箇所を読むだけでは、寛容が平安とどのような関係があるのかを知ることは困難です。そこで、パウロが言わんとしていることを正しく理解し、平安に満ちた生涯を私たちが送っていくためにまず私たちは「寛容」とは何なのかを知る必要があります。

寛容とはなにか

パウロがここで使う「寛容」と訳されている言葉は「親切」「忍耐強さ」「寛大さ」「慈悲深さ」「優しさ」 などといった概念を含む、的確に一つの言葉で訳すことが難しい単語です。元来この単語は不道徳な見識に相反する知的で公平な見識を意味して使われていましたが、後には思慮深い、優しさに満ちた態度を表す言葉として使われるようになりました。自分の権利を主張したり、争う姿勢を示して過度に厳密な態度で接することとは反対に位置する言葉です [1]。
この単語の意味をあえて要約するならば「他者が与える虐待や困難を忍耐を持って耐え忍ぶ」となるでしょう。たとえ誰に何をどれだけされたとしても、不幸と思えるような状況をもたらす者たちに対して忍耐を持って接することをパウロは告げているのです。このような態度の最たる例を主イエス・キリストに見ることができます。十字架上で主は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:24)と言われました。これはまさに他者が与える虐待や困難を、忍耐をもって耐え忍び、彼らに対して最大限の優しさをもって接している態度の表れです。それゆえ、聖書はこのキリストの寛容を模範にするように教えています。

あなたが たが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(1ペテロ2:21–23)

忍耐をもって人が与える苦難に耐え忍ぶことをキリストは模範としてその生涯で示されました。これが私たちが示すべき「寛容」なのです。しかし、なぜ寛容なのでしょう?なぜ寛容な心を持つことが、平安に満ちた生涯を送るための条件なのでしょう・・・。このことを次回の投稿で考えていきます。
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[1] パウロはこの単語を長老の持つべき特徴の一つとして挙げています(1テモテ3:3 [新改訳聖書では「温和」と訳されています])。また2コリント10:1ではキリストが持っていた態度としてこの単語が名詞形で使われています。