聖書的喜びは私たちの周りの環境や置かれている状況、ましてや私たちの持っている感情に依存するものではありません。この喜びはすべてのことを支配している神が私たちのために最善をなしてくださっているという絶対的な確信に基づく、神に依存する喜びです。それゆえに常に主の最善がなされることが確約されているクリスチャンは、パウロが告げる「いつも主にあって喜びなさい」という命令に従うことができるのです。この喜びは、父なる神から与えられる喜びで、御子なる神が約束し、聖霊なる神によって備えられるものなので、救われている者は誰でも、いつでも、どんな状況の中でも喜びを持つことができるのです。
しかし、すべてのクリスチャンが常に喜びをもって生きているかと問われれば、その答えは残念ながら「否」です。私たちの感情や状況によって本来はあるはずの喜びが奪い去られていることが多々あります。なぜいつも喜んでいないのでしょう。聖書的喜びがないから喜べないのではありません。喜びはすでに主によって与えられているのです。問題はすでに与えられている喜びを私たちが用いないことにあります。それは与えられたプレゼントを箱から出さずにしまっているようなものです。私たちは与えられている喜びを実感して生きることができます。しかし、そのためには「喜び」を箱から出さなければなりません。私たちがしなければならないことがあるのです。

聖書的喜びはどうしたら得られるのか

どうしたら喜びを持つことができるかということを考える上で、最初に私たちがはっきりと覚えておかなければならないことがあります。それはこの喜びは救われていない者に与えられていないということです。キリストの贖いを通して神との和解が成立していなければ、人は決して「すべてが万全である」と言うことはできません。なぜなら人は罪のゆえに神の敵であり、神からの怒りを受けるにふさわしい者だからです。神の敵が神からの祝福を期待することはできません。ですから、聖書的喜びは救われている者たちだけが持つことができるすばらしい特権であり、祝福なのです。しかし、救われているからといって自動的に常にこの喜びを実生活で持ち続けることになるわけではありません。少なくとも三つのことをしっかりと実践している必要があるのです。

聖霊に満たされていること

前回の投稿で記したように、喜びは御霊の賜物です。ですから聖書的喜びを実らせて生きるためには御霊に満たされていることが必要です。聖霊が喜びを生み出すことができるような状態に私たちがいなければ、喜びは実りません。パウロは「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18) と命じますが、この命令は「御霊に支配されなさい」と言い換えることができるでしょう。ここで使われている「満たされる」という言葉は、新約聖書のほかの箇所で「ねたみに満たされる」(使徒5:17; 13:45) や「怒りに満たされる」(ルカ4:28; 6:11; 使徒19:28) という意味合いで使われることがあります。「満たす」という言葉を使って、ねたみや怒りが心を支配している状態を現しているのです。
ちょうど酒に酔った時、肉体がアルコールによって支配され、まっすぐに歩いているように思っていても千鳥足になっているのと同じように、クリスチャンは聖霊に支配されることによって、自分の思うようにではなく聖霊の思うように生きることが教えられているのです[1]。喜びという御霊の実を実らせて生きるためには、御霊によって私たちの心が支配されなければならないのです。

みことばに従うこと

「御霊に満たされる」とは何か神秘的な、漠然としたものではありません。御霊に満たされるためには、みことばをよく理解し、実践しようとしなければなりません[2]。聖霊に支配されて生きることを願うなら、私たちは神の真理に従って生きることを願っているはずです。聖霊は父なる神が願う通りのことを私たちにさせようとします。そして神が願うことはみことばの中に記されています。もし私たちがみことばに背いて生きるならば、聖霊に満たされる生涯を送ることはできません。ましてや、聖書的喜びで溢れることもないのです。
私たちがみことばを蓄えて行くとき、それは私たちの心に喜びを与えます。エレミヤは「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(エレミヤ15:16) と記します。ダビデは「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(詩篇19:8) と告げます。 詩篇1:2には「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と書かれていますが、原文では、みことば以外のところに喜びを見い出すことができないがゆえに常にみことばを思い巡らす姿を見て取ることができます。
聖書の真理に対する心からの従順なしに聖書的喜びを得ることはできません。みことばを読み、みことばを理解し、みことばを生きることなくして、平安に満ちた生涯を送ることは不可能なのです。

思考を導くこと

御霊に満たされ、みことばに従うことと同時にもう一つ、私たちが喜びを得るために必要なことがあります。それは私たちの考えを正しい考えに導くことです。聖書が言っている正しいことは何かがはっきりしているときにも、罪深い私たちの思いは「それはできません」と訴えます。聖書が示す真理に対して、私たちは「でも・・・」とすぐに言うのです。しかし、そのような思いを持つときに私たちは正しいことを考えるように、自分たちの思考を導く必要があります。聖書的にものを考え、聖書的に結論を出すことを学ばなければならないのです。
ヤコブは私たちが正しい考え方をするように促して「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2) と告げます。試練がやってきて、困難に襲われて、私たちが喜べないと考えるような時に、ヤコブは「それをこの上もない喜びと思いなさい」と言うのです。このヤコブの言葉は、ピリピ4:4で命じられている「いつも喜びなさい」という命令を実践するために不可欠な忠告です。問題は「喜べない状況」にあるのではなく「喜びたくない心」にあるのです。
ここで詳しくヤコブの教えを見ることはしませんが、ヤコブは試練が与えらる理由を正しく理解していたがゆえに、「試練を喜びと考えなさい」と命じます。私たちの感情が「嫌だ」「だめだ」「無理だ」と叫ぶときに、正しく考え、正しい結論を出すようにヤコブは訴えるのです。神は常にご自分の栄光とご自分の民の最善のためにすべてのことを行います。神のこの目的からそれたことが私たちの生涯に起こることはありません。たとえ「なぜこのようなことが起こるのですか」と神の前に嘆くようなときでも、私たちに納得いく答えが見つからないときでも、神があらゆることを働かせて、主の栄光と私たちの最善のために働いておられることを私たちは知っているのです。だから、この真理に基づいてあらゆることを正しく考えるように、自分の思考を導かなければなりません。
私たちの感情があらぬ方向に進んで行き、私たちが生きている様々な状況が私たちが神を憎む方向へと私たちを引き寄せようとするときに、私たちは自分の中での戦いがあります。自分の思いを正しい方向へ導くという戦いです。聖書的喜びとは感情ではありません。 喜びとは神が信徒の最善のため、また、ご自身の栄光のために、あらゆる事柄を支配しておられるということ、それゆえに、どのような状況にあってもすべてが万全であるということを根底から確信していることです。これがどのようなときでも、私たちが持つことができる喜びなのです。
聖書的喜びを持つ者は思い煩うことがありません。たとえ一時的に不安に陥ることがあっても、それを継続することはありません。なぜならその人はあらゆることが主にあって万全であることを確かに知っているからです。私たちが平安に満ちた生涯を、揺るがされることのない人生を送るために、私たちは喜びを持たなければなりません。 その喜びを得るときに、私たちは主の前に平安に満ちた人生を歩んで行くことができるのです。
 
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[1] エペソ5:18の命令は受動態の命令です。つまり、私たちが「何かをする」命令ではなく、私たちが「何かをされる」命令なのです。このことはいくつかの大切なことを教えてくれます。一つは聖霊が私たちを満たそうとしていることです。聖霊は救われた者のうちに内在し、常に私たちを満たそうとしているのです。そして私たちが満たされていないとき、問題は聖霊の側にあるのではなく私たちの側にあることが二つ目の事柄です。私たちが頑なに聖霊に支配されることを拒み、自分のしたいことを行って生きようとしているならば、聖霊は私たちを満たしません。逆に私たちが自らの生涯の支配権を主に譲渡していくならば、聖霊は喜んで積極的に私たちを支配し、私たちを満たしてくださるのです。
[2] エペソ5:18と平行箇所になっているコロサイ3:16では「御霊に満たされなさい」という命令が「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」と置き換えられています。